フランツ・ヨゼフ・ハイドン
Haydn, Franz Joseph
オーストリア 1732 - 1809
父は車大工、母は地主の娘であった。
1737年頃、ハインブルクの学校に入学。1740年頃、ウィーンのシュテファン大聖堂の少年聖歌隊員となり、ポルポラのもとで学ぶ。変声期を迎えた1749年頃までボーイ・ソプラノとしてシュテファン大聖堂だけでなく宮廷でも活躍した。
その後、ピアノ教師、ヴァイオリニスト、オルガニスト、教会歌手として生計を立てる。
1757年頃、ボヘミアの貴族、モルツィン伯のもとで楽長に就任。
1761年、ハンガリーの大貴族パウル・アントン・エステルハージ侯の副楽長、66年には楽長となり、晩年までこの侯爵家に仕えた。
パウル・アントンの死後、1762年にニコラウス1世が後継者となり、宮廷の活動の中心はアイゼンシュタットになる。この時期、交響曲、三重奏曲が多数作られる。 1765年以降、宮廷の職とは関係のないピアノ作品に力を入れた。
1780年頃、ウィーンのアルタリアが楽譜銅版印刷を導入し、ハイドン作品の最初の出版元となる。
1791〜92年、イギリスに滞在。1791年、オックスフォード大学の音楽名誉博士号を取得。
1793年、ベートーヴェンがウィーンでハイドンの教え子となる。
1794〜95年、ふたたびイギリスで活動。
ロンドンから帰国後ウィーンに居を構えた。2つのオラトリオ、「天地創造」「四季」が成功。
1804年、侯爵家の職から引退。同年、ウィーン市の名誉市民に選ばれる。
18世紀後半、ウィーン古典派の代表的な作曲家。
発展しつつあった交響曲をソナタ形式として完成させ、交響曲の父と呼ばれる。また、弦楽曲を弦楽四重奏曲という形にしたことでも知られる。作品は多数でジャンルも幅広く、交響曲100曲以上、弦楽四重奏曲80曲以上、ピアノ・ソナタは62曲にのぼり、その他オラトリオ、ミサ、オペラなど多岐に渡る。
作品は、オランダの音楽学者ホーボーケンによってつけられたホーボーケン番号で整理され、一般にHob.と略して使われる。
作品:管弦楽曲DB
作品:オペラ名曲辞典
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