コルンゴルト・エーリッヒ・ヴォルフガング
Erich Wolfgang Korngolod
1897年ブルノ〜1957年ハリウッド。オーストリア=ハンガリー帝国出身のアメリカの作曲家。1907年大作曲家マーラーは10歳のコルンゴルトの作曲したカンタータを聴いて「天才だ! 天才だ!」と叫んだ。11歳で書いたバレー音楽「雪だるま」はウィーン宮廷歌劇場で初演され“モーツァルトの再来”と騒がれ、12歳で書いたピアノ・ソナタ第1番はリヒャルト・シュトラウスを戦慄させた。「シンフォニエッタ」を完成させた15歳の頃には、すでにプロ作曲家として第一線で活躍していた。16〜18歳にかけて書いた2つの一幕オペラ、「ポリクラテスの指環」と「ヴィオランタ」は1916年にブルーノ・ワルターの指揮で同時初演され、プッチーニの絶賛を浴びた。続く歌劇「死の都」は圧倒的な成功を収め、コルンゴルトのオペラ作曲家としての名声を不動のものとしましたが、この代表作を書き上げた時、コルンゴルトはまだ22歳だった。1927年に最高傑作と自負するオペラ「ヘリアーネの奇蹟」が初演された頃には、彼の名声は頂点に達し、ウィーン市から芸術勲章を授けられ、ウィーン音楽大学の名誉教授の称号を贈られた。1933年に隣国ドイツでヒトラーが政権を取ると、ユダヤ人であったコルンゴルトの活動にも次第に圧迫が加わる。そのころアメリカのハリウッドからメンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」を映画に使うための編曲と音楽監督の依頼が入り渡米する。
ハリウッドでは、『海賊ブラッド』 (1935)『風雲児アドヴァース 』 (1936)で、アカデミー音楽賞を獲得。『砂漠の朝』 (1937) と『放浪の王子』 (1937)とつづけざまに映画音楽を作曲。
ワーナーとの2年の契約期間が終了した1937年、コルンゴルトはいったんウィーンに戻るが、1938年1月ワーナー・ブラザーズから新作の依頼が入り再渡米。この年の3月、ナチス・ドイツ軍はオーストリアに侵攻、武力併合した。ユダヤ人であるコルンゴルトはもはや故郷に戻ることは出来なかった。コルンゴルトは、ワーナー撮影所の近くに家を買い、亡命した家族や親戚を養うため、映画音楽の作曲に専念した。『ロビンフッドの冒険』『革命児フアレス』 (1938-39)、『女王エリザベス』(1939) 『シー・ホーク』(1940)『海の狼』 『嵐の青春』『まごころ』(1943)、『永遠の処女』 (1943)
1945年、第2次世界大戦が終わると共に、コルンゴルトは純音楽の作曲に復帰し、弦楽四重奏曲第3番、ヴァイオリン協奏曲ニ長調などの傑作を書き始める。弦楽合奏のための交響的セレナード、交響曲嬰へ調など優れたクラシック作品を書き続けたが、「映画音楽作曲家」というレッテルを貼られ、戦後のクラシック楽壇からは相手にされなかった。夢にまで見たウィーン帰国も失敗に終わり、打ちひしがれたコルンゴルトはロスアンジェルスに戻り、不遇な晩年を送った末、1957年11月29日、脳溢血で亡くなった。
コルンゴルトはマーラーやリヒャルト・シュトラウスから直接学んだドイツ後期ロマン派の作風をそのままハリウッドに持ち込み、ハリウッドに大変な衝撃を与え、今日の「スター・ウォーズ」に通ずるシンフォニック・サウンズの基礎を作った。
作品:管弦楽曲DB

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