ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ
Pergolesi (Pergolese), Giovanni Battista (Giambattista)
伊 1710 - 1736
カナ表記では、ペルゴレーシとも書かれる。
生来虚弱で、片脚が短いという障害があった。父は土地測量技師。
1723年、ナポリのポヴェリ・ディ・ジェズ・クリスト音楽院へ入学。
同院卒業時の作品、聖史劇「聖グリエルモの改宗」が、1731年にナポリのサンタニェッロ修道院で上演される。(没後、オラトリオに改作)
1731〜32年、ナポリのサン・バルトロメーオ歌劇場からオペラ作品の委嘱を受ける。
1732年、ナポリのフィオレンティーニ劇場で上演された喜歌劇「恋に落ちた修道士」が大成功、名声を得る。
1732年、南イタリアでは度重なる大地震があり、その祈願礼拝用のミサ曲をナポリ市から依頼される。この礼拝は同年大晦日、サンタ・マリーア・デッラ・ステッラ教会で執り行われた。
1733年、2作目のオペラ「誇り高き囚人」がサン・バルトロメーオ劇場で上演。これは、インテルメッゾ(幕間劇)「奥様女中」を含む。
その後もローマ、ナポリの各地の劇場で次々とオペラ、幕間劇を発表、活躍。
1735年には体調が悪化。 病はおそらく結核であったとされる。
「スターバト・マーテル」が最後の作品となった。
没後、1738年、ナポリ王妃の命で、「奥様女中」の再演が始まる。この作品はインテルメッゾでありながら独立して上演が可能で、瞬く間にヨーロッパ中に広まり、音楽劇初のレパートリー作品となった。
1739年にはドイツ語で(独語タイトルはDie Magd als Herrin)でグラーツで上演、これに刺激を受けた作品が次々生まれる。
「スターバト・マーテル」は盛んに印刷出版され、大バッハはこれに「いと高き者よ、わが罪をあがない給え Tilge, Hochster, meine Sunden」という詞を付し、礼拝用モテット(BWV1083)に編曲した。
またストラヴィンスキーのバレエ「プルチネルラ」は、過去の作曲家の素材を元としているが、その中心となっているのはペルゴレージの作品である。
没後の人気急上昇と、わずか26歳で夭折したことによる伝説的ドラマ化により、偽作も多く出ることになった。
歌曲「ニーナNina」は、長くペルゴレージ作とされてきたが、チャンピ(1719-1762)の作とも言われる。ニーナの現在の楽譜には両者のどちらかの名か、または両方の名が記されている。
代表作:
クラヴィーア・ソナタ(3曲)
ヴァイオリン協奏曲
スターバト・マーテル
オラトリオ「聖ヨゼフの死 La morte di S. Giuseppe」
晩課のアンティフォーナ「神の支配下にて In coelestibus regnis」
モテット「このいかばかりか美しい日々 In hac die quam decora」
宗教オペラ「グリエルモの改宗 La conversione di S. Guglielmo」
オペラ・セリア「サルスティア Salustia」
喜歌劇 「恋に落ちた修道士 Lo frate 'nnamorato」
オペラ・セリア「誇り高き囚人 Il prigioniero superbo」ブッフォ・インテルメッゾ「奥様女中 La serva padrona」を含む。
オペラ・セリア「シリアのハドリアヌス帝 Adriano in Siria」インテルメッゾ「リヴィエッタとトラコッロ Livietta e Tracollo」を含む。
オペラ「オリンピアデ L'Olimpiade」
喜歌劇「フラミニオ Flaminio」
作品:管弦楽曲DB
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