ハインリヒ・シュッツ
Schutz, Heinrich (ラテン語ではシュッツはサギタリウス Sagittarius)
独 1585 - 1672
ドイツ・プロテスタントの作曲家。初期バロックを代表するひとり。
父クリストフは当初ゲーラの市書記官で、後にケストリッツで農場管理人となり、宿屋「金鶴亭 Zum Goldenen Kranich」を経営。母オイフロジーネはゲーラ市長の娘。父が1591年ヴァイセンフェルスの地所を相続、ハインリヒはそこでゲオルク・ヴェーバーに音楽の手ほどきを受ける。
1598年、ヘッセン方伯モーリッツに見出され、翌年ソプラノ歌手としてカッセルへ引き取られ、コレギウム・マウリツィアーヌムで総合教育を受ける。宮廷楽長オットーに師事。
1608年よりマールブルクで法律を学ぶ。
1609年、方伯モーリッツが学費を出し、ヴェネツィアのガブリエーリのもとへ留学。モーリッツの援助は3年続き、4年目は親元からの資金でヴェネツィアにとどまる。1612年、師のガブリエーリが死去、1613年、ドイツへ戻る。
帰国後、両親の希望でライプツィヒ大学で法律を学ぶ。しかしヘッセン方伯とのつながりは続き、1613年、カッセル宮廷の第2オルガニストに就任。同年、方伯の私的秘書としてドレスデン訪問に同行。
翌1614年にはドレスデン宮廷で洗礼式典に出演、それ以降、方伯モーリッツとザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世がシュッツをめぐって争うことになる。結局モーリッツが屈し、1617年にシュッツはドレスデンの宮廷楽長に就任。
1628〜29年、ヴェネツィアでイタリア様式を学び、モンテヴェルディを知る。ここで得たオラトリオ様式、レチタティーヴォ様式はその後の作品で結実する。
1631年、ザクセンが三十年戦争に参戦したため、コペンハーゲン、ヴォルヘンビュッテルなどで活動。
1633年〜35年、デンマーク王子婚礼における指揮のためコペンハーゲンに滞在。
晩年まで盛んに作曲活動をし、ドイツのプロテスタント界に大きな影響力を持った。
作品のほとんどはドイツ語聖書、ルター訳による宗教曲。
「言葉は音楽の絶対的なあるじなり Oratio Harmoniae Domina absolutissima」というモンテヴェルディの命題に従い、作品は声楽が中心であり、独立した器楽作品、オルガン作品はない。
高度な対位法、教会音楽の形式はバッハへと繋がる役割を果たす。
作品:管弦楽曲DB
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