ミステリー「おもちゃの交響曲」

〜真の作曲者を探す旅〜
佐々木 修

 おもちゃの交響曲(Toy Symphony)はオーストリア、チロル地方出身の作曲家でベネディクト会の神父エドムント・アンゲラー(Edmund Angerer)が1770年ころに作曲した、いわゆる "Berchtolds-Gaden Musick"(ベルヒテスガーデンの玩具店製のおもちゃを加えた音楽を意味する造語)とよばれる、三楽章からなる小交響曲である。『こどもの交響曲』(Kindersymphonie)とも呼ばれる。

第1楽章 Allegro
第2楽章 Menuetto
第3楽章 Allegro

迷走した作曲者探し
 『おもちゃの交響曲」の真の作曲者探しは迷走に迷走を重ねた。自筆譜が存在しないこと、またこの交響曲の成立に関する手紙等の二次資料がないため、確証は得られなかった。18世紀からもっぱらフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの作品ということになっていたが、これは当初から嫌疑がかけられていた。つまりヨーゼフ・ハイドンの他の作品と比較して、あまりにも単純、よくいえば田園的だからである。次なる候補はハイドンの5歳年下の弟ミヒャエル・ハイドンであった。ミヒャエルはザルツブルク在住でモーツァルト親子とも親交があり、モーツァルトの最後の交響曲第39番、第40番、第41番のモデルとなる交響曲を作曲した程の才能の持ち主であった。しかし、これも確証が得られなかった。さらに同時代の大天才モーツァルトの作品に違いないという、半ば夢想的なことも言われてきた。
 事態が大きく動き出したのは20世紀も半ばにさしかかった1951年、レオポルト・モーツァルトの作曲とされるカッサシオン(全7曲)が、エルンスト・フリッツ・シュミットによりバイエルン州立図書館から発見され、その一部が『おもちゃの交響曲』と同一であることが判明した。
モーツァルトの父として、音楽史に燦然と輝くレオポルトであったが、作曲家としては、ほとんどその作品を後世に残していない。その父モーツァルトが『おもちゃの交響曲』を作曲したというニュースを、世界中の音楽ファンは納得をもって受け入れた。またこの事実から、今日の音楽解説書では、レオポルトの作品ということが定着している。
 1992年、オーストリアのチロル地方から驚くべきニュースが入ってきた。それはチロル地方シュタムス修道院(Stift Stams)の音楽蔵書の中から、1785年ごろ、当院の神父シュテファン・パルセッリ(Stefan Paluselli, 1748年-1805年)が写譜した『おもちゃの交響曲』の楽譜が発見されたのだ。そこには同じくチロル出身で、今日全く忘れ去られた作曲家エドムント・アンゲラーが1770年ころに作曲したと記されていた。
エドムント・アンゲラーの活動とこの交響曲の作風、あるいは木製玩具の製造地であるバイエルン州の著名な保養地ベルヒテスガーデンがほど近いことなどから総合的に判断して、今日これを覆すだけの説は出ていない。
いずれにせよ、今日無名の作曲家エドムント・アンゲラーの発想と作曲により『おもちゃの交響曲』は世界中の子供と大人を魅了しつづける。
 なおベルヒテスガーデンの木製玩具は18世紀のヨーロッパでは広く知られており、今日なお名産品となっている。またこの交響曲が最初に出版された時、作曲者としてハイドン、またタイトルとして『こどもの交響曲』が出版社の判断で付けられた。『おもちゃの交響曲』は英語圏でのタイトル「Toy Symphony」に由来する。

 私は上記の文章を、2006年11月、私が展開する「モバイル音楽辞典」と「ウィキペディア」に、同時に発表しました。これは、2008年2月に日経出版より出版された小泉純一郎元総理の著書「音楽遍歴」の中にも引用されるなど、大きな反響を呼びました。そこで2008年8月にオーストリアのチロル地方を訪れ、真の作曲家と思われるエドムント・アンゲラーの足跡を辿る一方、ベルヒテスガーデンでは本場の木製玩具を探し、さらに夏の音楽祭で賑わうザルツブルクを訪れ、国際モーツァルテウム財団の研究者などとも意見を交換して、さらなる検証と考証を重ねました。
 結論から申し上げますと、今回のヨーロッパでの検証の旅を終えた後も、2006年11月に発表した文章の修正はありません。『おもちゃの交響曲』の楽曲解説としては、必要かつ十分なものです。

 以下に、私と『おもちゃの交響曲』との出会いに加えて、詳細な解説をします。


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