Antonio Janigro
1918.1.21(ミラノ) - 1989.5.1(同地)
イタリアのチェロ奏者、指揮者。ミラノ音楽院を卒業後パリのエコール・ノルマルでアレクサニアンとカザルスに師事。16歳でデビュー、21歳の若さでザグレブ音楽院のチェロの教授に招かれた。ソリストとしてはベルリンフィル、シカゴシンフォニーなど世界の名オーケストと共演。
1954年よりザグレブ室内合奏団、ミラノ・アンジェリクム管弦楽団、ザール放送室内管弦楽団の指揮者。デュセルドルフ、シュトゥットガルト、モーツァルテウム各音大の教授としてアントニオ・メネセスをはじめとする優秀な弟子を輩出する。

アントニオ・ヤニグロ先生と知り合うことが出来たのは1979年の初夏でした。ザルツブルグのモーツァルテウム音大の学内演奏会で、ある作曲科の学生の新曲「チェロとオーケストラのためのラプソディー」を指揮することになりました。そのチェロ専攻の学生がヤニグロ門下生だったのです。

当時モーツァルテウムには何人かの国際的なスター教授がいました。ヴァイオリンのシャンドール・ベーク、ピアノのハンス・ライグラフ、そしてチェロのアントニオ・ヤニグロなどがそうでした。このほかにも例えばバイオリンのツェットマイヤーや古楽のアルノンクールも名物教授ではありましたが、先の3人の門下生がジュリアードやパリ音楽院を主席で卒業し、かつ国際コンクールで上位に入賞する実力を持った逸材が集まることで、他のクラスと歴然とした違いがありました。

その「チェロとオーケストラのためのラプソディー」の練習にヤニグロ本人が来て私を気に入ってくれたのです。
この演奏会はひどい曲!を見事に演奏した、指揮をしたということで学内で一躍注目され、私の指揮の先生であったビンベルガー教授がカラヤンのところへ出向いて、カラヤンコンクールへ出場出来ることになったきっかけになりました。

さてその数日後、ヤニグロ先生をお世話していたモーツァルテウムのピアノ科の講師、日本人のM女史からお電話があり、ヤニグロ先生と一緒に御飯でも食べませんかとお誘いを受けました。

まず最初に申し上げたいのは、それまで私は冒頭にあるヤニグロのプロフィールの1行も知りませんでした。唯一私が知っていたのは、ヤニグロが国際的なチェロの教授だという事だけだったのです。
そしておそらくこれをご覧のみなさんもヤニグロという名前を知らない方が多いと思います。そこでまず私なりにヤニグロを紹介したいと思います。

ヤニグロはミラノで生まれ当地で教育を受けた後、パリのエコール・ノルマルで勉強をする。プロフィールではカザルス師事と載っているが、本人の弁ではカザルスに付きたいとお願いしたら、アレキサニアンを紹介されたと言っていました。パリ時代にはかの名ピアニスト、ディヌ・リパッティー (1917~1950)と同宿して勉強したそうです。ジュネーブコンクールで第二位入賞、このときの第一位のスイス人の女性チェリストは後にヤニグロのコンサートの楽屋に来て、ヤニグロが優勝するべきだったと言ったそうです。
ヤニグロは1950〜60年代世界最高のチェリストでした。ベルリンフィルやシカゴシンフォニーとの共演やレコード録音でその音は今も聞くことができます。しかし最盛期は長く続きませんでした、左手に神経症が出て、何より本人が自分の最高の音楽を出来ないことでチェロを人前で弾くことはなくなりました。しかし1954年よりザグレブ室内オーケストラの指揮者として、特に弦楽器のアンサンブルに絶妙の指導力を発揮し、指揮者としての名声は国際的になりました。
このザグレブ室内オーケストラとの活動があまりにも有名なため、ついにはヤニグロはイタリア出身にもかかわらずユーゴ人と音楽事典に掲載されることとなり、本人も苦笑していました。
70年代も後半に入るとその指揮者としての活動も下火になり、デュセルドルフ、モーツァルテウムでの客員教授として数々の優秀な弟子を教えることになりました。この頃私がヤニグロと知り合うことになったわけです。

先のM女史のお誘いの後、それからヤニグロ先生がモーツァルテウムを去る数年間、それこそ毎月のようにヤニグロ先生と飲み、語り合うことが出来ました。私は確かにカラヤン、チェリビダッケから音楽的には最大の影響を受けましたが、それはあくまでも指揮をしていたり教えていた外の顔でした。
しかしこのヤニグロと知り合いになり、初めて一流の芸術家の生身の人間、心に触れることができました。

当時のヤニグロを語る上で避けて通れないのはアルコールの問題です。
朝起きるとまずビール、レッスンの前には大学の前のスタンドでシュナップスとビール・・・一日中アルコールが切れることはありませんでした。
敵からはアル中と言われていましたが、ほとんど食事らしい食事も取らないのでエネルギー源はアルコールだったような気がします。
そしてヤニグロは驚くほど繊細でナイーブな心を持っていたため、素面で世の中の出来事、自分の現状を正面から見れない、そこでアルコールに頼っていたと思います。

さて私がヤニグロ先生と食事をした最初の夜、夜も更けて来た頃ヤニグロ先生がフルトヴェングラーのレコードを聞きたいと言いました。シューマンの第4交響曲かブルックナーの第7番だったと思いますが、そのレコードを聞きながらヤニグロ先生の目には涙が溢れてきました。ヤニグロ先生はただ美しいと涙を流していたのです。

それまで私は音楽を聞いて涙を流すというのは、ちょっとセンチメンタルで恥ずかしいという気持ちがありました。しかしヤニグロ先生の涙を見て私の音楽観は全く変わりました。
少なくとも世界で最高のチェリストだった人が、老いてなおフルトベングラーで涙を流せる。これはショックでした。そして一番大切なことを教わった気がしました。
よく芸事で馬鹿になり切れるか・・・ということ言います。

90歳の画家シャガールは毎朝飲む紅茶を、こんな美味しい紅茶は生まれて初めてだ!と言い、ピカソは自分の奥さんに毎日新しい発見がある!と言っていたそうです。もっとも3回結婚していますが・・・
チェロの神様カザルスは毎朝バッハの平均律をピアノで演奏して、毎日興奮していたそうです。

クラシックの演奏家は何百年も前の音楽を飽きもせずくり返し演奏します。 このいつも新鮮な感激をもてるというのが一流の芸術家の秘密だと思います。
そしてそれを教えてくれたのがアントニオ・ヤニグロ先生だったのです。

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