Beethoven, Ludwig van
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
1770.12.17 ボン - 1827.3.26 ウィーン
祖父ルートヴィヒは各地で聖歌隊員、バス歌手を務め、宮廷カペルマイスターも任される一方、副業にワイン販売もしていた。3人の子どものうち成人したのは、ベートーヴェンの父であるヨハンのみで、ヨハンはボン宮廷楽団のテノール歌手を務めた。また息子ルードヴィヒにピアノを教え、7歳でデビューさせた。宮廷オルガニストのエーデンとプファイファーにピアノを、ロヴァンティーニにヴァイオリンを、コッホとツェンゼンにオルガンを師事。特に選帝侯の劇団音楽監督でオルガニストのネーフェにピアノと音楽理論を習い、ネーフェは音楽面だけでなく個人的にもベートーヴェンの理解者となった。1782年、ネーフェに代わって選帝侯のオルガンを担当するようになり、1784年には選帝侯マクシミリアン・フランツの宮廷楽団に入る。選帝侯立大学(現ボン大学)の哲学の講義を聴講。1787年、ウィーンのモーツァルトのもとを訪れる。しかし母の病気のためにすぐに戻る。1792年にはハイドンに師事するため、再びウィーンへ行く。同地では自前のオーケストラや室内合奏団をもっている貴族が多く、音楽的環境に恵まれ、ベートーヴェンはピアノの優れた即興演奏によって急速に有名になる。支援した貴族は、ヴァルトシュタイン伯爵(ボン)、リヒノフスキー伯爵、ルードルフ大公、ロプコヴィツ侯爵、キンスキー侯爵などである。ハイドンのほか、シェンクとアルブレヒツベルガーに対位法を、サリエリに作曲を師事。1795年、ブルク劇場でピアニストとして公式にデビューする。同年、作品番号を付した最初の作品、3つのピアノ三重奏曲 op.1 を出版。1800 年、交響曲第1番が初演。聴覚を失い始め、異常に気づいたベートーヴェンは1802年、「ハイリゲンシュタットの遺書」として知られる手紙を書く。失意から立ち直ったベートーヴェンは、ますます世に知られるようになり、1801年、サルヴァトーレ・ヴィガノからの委嘱でバレエ音楽「プロメテウスの創造物」を作曲。1805年、オペラ「フィデリオ、または夫婦の愛 Fidelio oder die eheliche Liebe」が初演。長すぎると不評だったため、3幕を2幕としたものが翌年初演されたが、これも不評だった。聴力の低下は徐々に進み、1818年には筆談に頼る「会話帳」を使い始める。1824年、交響曲第9番初演。1826年冬、肺炎を起こし、その後水腫となり、4回の手術を受ける。1827年3月没。
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