アントン・ブルックナー
Bruckner, Anton
オーストリア 1824 - 1896
作曲家、オルガニスト。
古くからの農民の家系に生まれる。祖父と父は教師。カトリックを深く信仰。10歳で父の代理としてオルガンを演奏することができた。
1837年、父の死後、修道院長のアルネートが養父代わりとなり、聖フローリアンのアウグスティノ修道参事会の聖歌隊員養成所に入る。その後、リンツの教員養成学校に1年半通った後、各地で助教員を務めた。
1845年から10年を聖フローリアンの学校に勤務、カッティンガーのもとでオルガン奏法と作曲を学ぶ。
1855年、リンツの教会オルガニストに任命され、1856年にリンツに移り、これ以後、音楽に専念することになる。リンツでは13年を過ごし、その間ウィーンのジーモン・ゼヒターに師事、勉強を続け、1861年に音楽教師の資格を取得。
またリンツ劇場の楽長オットー・キッツラーに楽式論と楽器法を学ぶ。
1867年頃、健康を害し、精神錯乱の寸前に至ったが、回復後、師のゼヒターの後任としてウィーン音楽院の和声、対位法、オルガンの教授に就任。
1869年、パリのノートル=ダム大聖堂で演奏会を開く。サン=サーンス、フランク、オーベール、グノーらが列席した。
1871年、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで演奏会、大成功となる。
1878年、オルガニストを10年間務めていた宮廷楽団の正規団員となる。
1884年、ニキシュがライプツィヒで第7交響曲を初演、ブルックナーの名を世に知らしめる。
1891年、ウィーン大学から名誉博士号。
純朴で、洗練されない田舎風の外見のため蔑視されることも多く、貴族社会やブルジョワ社会の華やかな音楽生活とは無縁であった。
生涯に渡って交響曲を書き続け、特徴的書法はブルックナー開始、ブルックナー休止などと呼ばれる。
作品は、改訂癖が強く、曲の完成後、初演がなされた後に、全体の構成が変わるほどの改訂をし、決定稿が判然としないものが多い。他人の手による著しい介入の跡がみられるものもある。現在では、研究出版された全集であるハース版、ノヴァーク版の他、エーザー版、キャラガン校訂版などがあり、弟子たちによる改訂版も多数存在し、シャルク版、レーヴェ版などがある。
死後、遺言により、学び育った聖フローリアン修道院のオルガンの下に葬られた。
◆交響曲
ヘ短調 00番
第0番 ニ短調
第1番 ハ短調
第2番 ハ短調
第3番 ニ短調「ワーグナー」
第4番 変ホ長調「ロマンティック」
第5番 変ロ長調
第6番 イ長調
第7番 ホ長調
第8番 ハ短調
第9番 ニ短調 未完
◆宗教曲
テ・デウム
ミサ曲 第1〜3番
詩篇 150番
・・・など多数。
作品:管弦楽曲DB
ABC索引へ戻る
50音索引へ戻る
管弦楽曲DB-TOP
作曲家名簿TOP