コダーイ/ゾルタン
Kodaly, Zoltan
1882年メチュケメート〜1967年ブダペスト。ハンガリーの作曲家。教育家。父母ともにアマチュアの音楽家。2才の時にガランタの町に移り住み、そこで耳に馴染んだジプシー音楽とが後に「ガランタ舞曲」となって結晶する。1892年文化的な歴史的な都市ナジソンバトに移住。ローマ・カトリック教会のギムナジウムへ通う。この町の敬虔な雰囲気が、コダーイの音楽に満ち満ちている宗教的な精神を養う基礎となった。15才の時にはすでに序曲、「アヴェ・マリア」などを作曲。1900年ブダペストのパーズマーニュ・ペーテル大学哲学科入学。1901年大学に在学のまま、ブダペスト王立音楽院のハンス・ケスラーの作曲家クラスに入学。これ以降コダーイの生涯は作曲とマジャール(ハンガリー)民謡の研究と民謡にもとづく国民的な音楽教育体系の創造という3つの大きな分野にささげられる。1904年王立音楽院卒業。在学中にはブラームス風な多くの室内楽や宗教的な合唱音楽を作曲。1905年夏、ハンガリー北西部の辺境に最初の民謡収集旅行を敢行。バルトークとの親交がはじまる。1907年パリでドビュッシーと出会い、圧倒的な感動を受ける。1907年ブダペスト王立音楽院の教授に任命される。1910年エンマ・シャーンドルと結婚。1914年第1次世界大戦勃発。民謡の仕事は中絶。1914〜1919年音楽批評家として活躍。1918年革命政府はコダーイを音楽委員会の委員に起用。しかし革命政府は133日しか続かず、8月には崩壊。コダーイは査問され窮地に陥る。1923年「ハンガリー詩編」で一躍世界的に注目される。1926年音楽劇「ハーリ・ヤーノシュ」でさらなる名声を得る。1925年以降、若い世代に対する音楽の訓練にのためにソルフェージュ練習曲を書き、コダーイ・システムで若者の音楽教育プログラムの発展に尽力。1934年ハンガリー国民芸術会議のメンバーに推挙される。1940年シカゴ交響楽団委嘱による「管弦楽のための協奏曲」を作曲。オーストリアがナチス・ドイツに併合され、ハンガリーでも親ナチ的なファシストの政権が樹立された。1937年の合唱曲「孔雀は飛んだ」は歌詞が革命的であるとの理由で演奏禁止になり、バルトークは1940年アメリカに亡命する。しかしコダーイは、戦乱のハンガリーにとどまる道を選ぶ。1943年科学アカデミーから客員会員。1945年国民芸術会議議長、音楽学校指導者会議議長。1946年〜1949年ハンガリー科学アカデミー総裁。1957年ブダペスト大学名誉博士号。1958年妻エンマ死去。1960年オックスフォード大学名誉博士号。1962年政府から最高位勲章を授与される。コシュート賞受賞。1963年アメリカ芸術科学アカデミー名誉会員。1964年国際音楽教育協会名誉会長。1967年3月6日ブダペスト没
作品:管弦楽曲DB
RETURN
作曲家名簿-TOP