ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ
Shostakovich, Dmitry Dmitriyevich
露 1906 - 1975
9歳でピアニストの母からピアノを学ぶ。1919年、グラズノフによりペトログラード音楽院へ推薦され入学、ピアノをレオニード・ニコライエフに師事、1923年にピアノ科を修了、作曲はマクシミリアン・シテインベルグに師事、1925年に修了。卒業作品の交響曲第1番で国際的な成功を得る。
1926年、レニングラード工業専門学校でスコア・リーディングを教え、1937年、レニングラード音楽院の作曲科教授。1943年、モスクワ音楽院に移り、1947年にはレニングラード音楽院に復帰。
ロシア革命に共鳴した作品を多く発表していたが、20年代末にソヴィエトの文化統制が始まり、オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」は強烈に批判され、スターリン体制下での芸術における方針の変化によって危機に陥る。しかし、交響曲第5番で表面的には順応を装い、成功。スターリン体制の看板となった。
独軍に包囲されたレニングラードを描いた交響曲第7番は国際的に大きな反響を呼び、広く演奏された。
1948年、当局のジターノフから党の路線から逸脱したと批判される。その一方、国際的に名声が高まる。1942年以降、自筆譜がモスクワで公式に収集され始め、1979〜87年、42巻からなる作品全集が出版。
政府の求める路線から逃れることは不可能で、生涯、政治的影響を受け続けた。しかし政治的に妥協した作品を書くことで自由を確保し、社会主義から離れた創作活動を得られる面もあった。
1953年、スターリンが死去すると、創作活動は比較的制限なく行えるようになったが、交響曲第13番が体制に沿わず、1959年、再び糾弾される。
速筆で多作家であり、作品は宗教音楽を除くほとんど全てのジャンルに渡り、その中でも舞台音楽、交響曲、室内楽が重要。
20世紀を代表する大作曲家のひとり。
代表作:
ピアノのための24のプレリュード op.34
ピアノのための24のプレリュードとフーガ op.87
弦楽四重奏曲(15曲)
交響曲(15曲)
合唱曲 革命詩人の詞による10の詩
オラトリオ 森の歌
◆オペラ
鼻 Nos op.15
ムツェンスク郡のマクベス夫人 Ledi Makbet Mtsenskogo uyezda op.29
賭博者 Igroki op.63
作品:管弦楽曲DB
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