ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
Tchaikovsky, Pyotr Il'yich
露 1840 - 1893
父は鉱山の監督官で、サンクトペテルブルクの科学技術研究所の所長であった。母はフランス系。フランス人家庭教師のもとで学ぶ。
1850〜59年、サンクトペテルブルクの法律学校で学ぶ。卒業後、法務省に入省。勤務のかたわら、1861年からロシア音楽協会の音楽教室で学ぶ。この音楽教室は、1862年にサンクトペテルブルク音楽院となる。1863年、法務省を辞め、音楽の勉強に専念。アントン・ルービンシュタインに師事。シラーの詩によるカンタータ「歓喜に寄す K radosti」が卒業作品。
1866〜77年、モスクワ音楽院で音楽理論の教授。
1877年、結婚するが、すぐに破綻。その後も元妻につきまとわれ、精神的圧迫を受ける。
1872〜76年、「ロシア報知 Russkiye vedomosti」の音楽批評欄を任される。
資産家で音楽愛好家のフォン・メック夫人から年額6000ルーブルの援助を受け、1878年以降は生活の心配なく、フリーの作曲家として活動。1890年、フォン・メック夫人は突然この資金提供を打ち切るが、作曲の収入も増え、演奏活動での収入もあったため、困ることはなかった。この大富豪の未亡人とは書簡のやり取りのみで、顔を合わせることはなかった。
指揮者として盛んに活動、欧州各地、米国でも成功。
1881年、モスクワ音楽院の院長職の話が来るがこれは断り、作曲クラスを教える。門下にはタネーエフ、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキーらがいる。
1885年、ロシア音楽協会の理事となる。
ケンブリッジ大学より名誉博士号を授与される。
アカデミー・フランセーズの遠隔地会員。
子供の頃から感受性が強く、神経が繊細で、精神的な不安定が続く中、さまざまな職務は大きな負担であった。
1892年からモスクワ郊外のクリンの別邸に落ち着く。ここは現在チャイコフスキー博物館となっている。
交響曲第6番の初演後まもなく、コレラで死亡。死因は、彼が同性愛者だったためにロシア当局から追求され自殺を強要されたという砒素自殺説が一時期まかり通ったが、現在では否定され、コレラ説に戻っている。
数ある作品中、ピアノ協奏曲、悲愴交響曲、3大バレエは特に世界中の演奏会に欠かせないレパートリーとなっている。巧みなオーケストレーション、わかりやすいメロディで演奏頻度の高い作曲家。
代表作:
ピアノ曲多数
◆交響曲
第1番「冬の白日夢 Zimniye gryozi」ト短調 op.13
第2番「小ロシア Malorossiyskaya」ハ短調 op.17
第3番 ニ長調 op.29
第4番 ヘ短調 op.36
第5番 ホ短調 op.64
第6番「悲愴 Pateticheskaya」ロ短調 op.74
◆協奏曲
ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 op.23
第2番 ト長調 op.44
第3番 変ホ長調 op.75
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35
◆オペラ
エフゲニー・オネーギン Evgeny Onegin
オルレアンの少女 Orleanskaya deva
マゼッパ Mazepa
スペードの女王 Pikovaya dama
◆バレエ
白鳥の湖 Lebedinoye ozero
眠りの森の美女 Spyashchaya krasavitsa
くるみ割り人形 Shchelkunchik
作品:管弦楽曲DB
交響曲・協奏曲
 バレエ・歌劇
その他管弦楽曲
作品:オペラ名曲辞典
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