第２幕
（情景は前の場面の続きで、同じリド島の浜辺）
アッシェンバックは思わず「愛している…」と呟いた自分の気持ちを、自ら分析してみる。我を失い心のままを吐き出すことに抵抗もあったが、アッシェンバックはすぐに「これは神聖な気持ちなのだから…」と自分に言い聞かせることにした。
第８場/ホテルの理髪店
ホテルの理髪店でアッシェンバックが散髪をしていると、客を誉めるのが得意そうな、調子のいい理髪師が「お客様はまだここに滞在なさるのですか？病気は気にならないんで？」と意味あり気に話しかけて来る。何のことだか分からないアッシェンバックが「何の病気だ？」と尋ねると、理髪師は一瞬「しまった！」という表情で話題を切り換えた。どうやらヴェニスでは最近何かの病気が流行っていて、観光客たちは次々とヴェニスを後にしているようだ。
第９場/ヴェニス本島
アッシェンバックがヴェニスに出掛けると、街中の掲示板に「伝染病に注意！運河の水の使用を控え、貝類の摂取はしない」と書かれている。運河からは消毒のためか薬品の臭いが漂っている。アッシェンバックは集まっている人々に「何の病気か？」と尋ねるが、誰からもまともな答えが返って来ないので、彼はドイツ語の新聞を買って読んでみた。新聞には「ヴェニスでコレラ汚染の恐れ！ドイツ国民は直ちに帰国せよ！」とある。
そこへちょうどタッジオ一家がやって来るのが見えた。アッシェンバックは一瞬で新聞の記事のことなど忘れ、見目麗しいタッジオに吸い寄せられるように、ポーランド人一家の跡を付け始めた。途中タッジオに気付かれたような気はしたが、アッシェンバックはカフェや教会、帰りのゴンドラまで少年を追い続け、ホテルへ戻った。
第10場/ホテル
夕食後のテラスで、旅芸人たちが歌や寸劇を披露している。アッシェンバックは芸人の１人に伝染病について尋ねてみるが、ここでもはっきりとした答えは貰えなかった。２人の様子を見ていたホテルのポーターが、そっとその芸人を呼び出すと「お客様と何を話していたんだ？」と過剰な警戒心を見せていた。
第11場/旅行社
旅行社は多くの人々でごった返していた。皆ヴェニスから出るためのチケットを求めているのだ。アッシェンバックがイギリス人の社員を捉まえて混雑の理由を尋ねると、最初は話しをはぐらかしていたその社員も、次第に本当のことを話し出した。インドで発生したコレラがアジアから地中海まで広がりをみせていて、ここヴェニスでもとうとう死者が出たのだが、当局は観光客の減少を危惧してこれを隠し通そうとしているらしい。ところが最近になって、ヴェニスから帰国したオーストリア人がコレラで亡くなったことからドイツでも騒ぎが大きくなり、ヴェニスの人々にも知れ渡って来ていると言うのだ。イギリス人社員は「コレラに罹ればまず助からないので、街が閉鎖される前に今すぐにでもヴェニスを出た方がいい…」と、アッシェンバックにそっと耳打ちをした。
第12場/ホテルのロビー
アッシェンバックは旅行社で聞いて来た恐ろしい事実を、タッジオの母親にも伝えなければと思うのだが、道徳心や良心とは裏腹に言えばタッジオと逢えなくなるという恐怖から、なかなかそれを言い出せないでいた。いつも真珠のネックレスを身に付けているタッジオの母親が、ある日目の前を通り過ぎるのを見送った時、アッシェンバックは、たとえそれが全ての破滅に繋がっているとしても、このまま口を噤もうと決心した。彼は結局自分の欲望に忠実であることを選んでしまった。
第13場/夢の中
アッシェンバックの夢の中で、太陽神アポロンと酒の神ディオニュソスが争っている。酒を飲み歌い踊れと言うディオニュソスに対し、アポロンは必死に理性と愛を保てと訴えるが、次第にアポロンは追いやられ、その内消えてしまう。目を覚ましたアッシェンバックは「私ももうこれ以上堕ちることはないな…」と呟き、後はディオニュソスの神に身を任せることにする。
第14場/浜辺
人気もまばらになった浜辺で、タッジオが数名の友達と遊んでいるが、すぐにどこかへ走り去って行く。その姿を少し離れた所から眺めながら、アッシェンバックは「もう先のことは何も考えずにおこう…」とぼんやり思う。
第15場/ホテルの理髪店
アッシェンバックは少しでもタッジオに自分を若く見せようと思い立ち、理髪店で髪を染め薄化粧をしてもらう。それはヴェニスに渡る船の中で出会った、あの若作りの洒落た中年男を思わせた。
第16場/ヴェニス本島
アッシェンバックはヴェニスの街へと出掛ける。見かけを若くしてもらったせいか、心は少し躍っていた。偶然にもあのポーランド人の家族を見掛け、アッシェンバックはまた跡を付け始める。もうあの美しい少年の姿を見ることだけが、アッシェンバックの生甲斐なのだ。彼の頭の中でのタッジオは、既に自分の気持ちを理解し受け入れてくれている。暫くするとふとタッジオがアッシェンバックに気付き、彼を見つめる。それはほんの僅かな時間で、タッジオはまたすぐに家族の元に戻るのだが、愛する人に見つめられたことでアッシェンバックの心は満たされ、極上の幸せを噛み締める。アッシェンバックはその後果物売りの娘から苺を買って食べるが、腐りかけのその苺はどうにもカビ臭い。アッシェンバックの体はすでに病魔に襲われていたが、彼にとっては「死の恐怖」よりも「美への情熱」の方が重要で、命の尽きるその日まで、タッジオの姿を見ていたいと願うのだった。
第17場/浜辺
アッシェンバックは、ホテルの支配人とポーターが「ポーランド人一家が帰国することになった…」と話すのを聞く。いよいよその時が来たかと浜辺へ行くと、タッジオの遊ぶ姿が見える。多少遊びが乱暴な様子で、タッジオが友達のヤシュウに倒され顔が砂に押しつけられた。アッシェンバックは思わず「あっ！」と声を出し、椅子から立ち上がろうとする…がその時突然発作に見舞われ、彼は椅子の上に崩れ落ちる。もうろうとした意識の中で、アッシェンバックがタッジオの名を呼ぶと、ぼんやりとした視線の先から、その美しい少年が手招きをしているかのように見えた。アッシェンバックはまるで眠るようにして、そのまま椅子の上で死んでいった。タッジオは無邪気な顔で海に向かい歩いて行く。（幕）
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