内田魯庵
円福寺方丈の書院の床の間には、光琳風の大浪が描かれている。椿岳の大作の一つに数えるべきものの一つであるが、なかんずく大浪は、柱の外、框(かまち:枠)の外までも奔(ほん:勢いの良い)波畳波が溢れて、椿岳流の放胆な筆力が十分現れている。
椿岳は明治17~18年ごろ落成したこの円福寺の本堂の天井画を描いた。残念ながら戦後火災のため焼失した。
円福寺にはこの大浪のほか、何点かの椿岳の作品が保存されている。
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(拡大)卒塔婆小町(そとばこまち)
高野山の僧が、卒塔婆(そとば)に腰掛けた乞食の老女をとがめます。
その老婆は逆に僧に対して、仏の教理を説きはじめます。
老婆は実は小野小町(おののこまち)のなれの果てでした。
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椿岳 画の系統淡島屋の養子になった椿岳は、蔵前に画塾を開いていた大西椿年(ちんねん)に師事した。
椿年は南岳の弟子、南岳は応挙の高足源奇(たかあしげんき)に学んだのだから、椿岳は応挙の正統の流れを汲んだ曾孫弟子となる。
椿年が亡くなった後は、高久隆古(たかくりゅうこ)に師事。隆古亡き後は自分で倭画(やまとえ)を研究したほか、容斎(ようさい)の教えを受けた。
そのなかで特に隆古には傾倒して、晩年にまでその影響が現れている。
しかし概して師よりも、覚猷(かくゆう)、蕪村、大雅、巣兆(そうちょう)などの豪放洒落な画風を学んで得るところが多かった。
また何でも新しいもの好きで、維新後には洋画まで描いた。明治初年に渡来した英国人の画家ワグマンとも親交を深め、ブラシの使い方や絵具の用法等、洋画のテクニックを習った。
2000年3月22日 嬉しいメールを頂きました。
はじめまして、
ホームページを拝見いたしました。
その中にある大西椿年は、私の七代前の先祖、春庵の弟にあたります。
椿年の墓は、当初金龍山浅草寺の支院、金剛寺にありましたが、現在は東京都
大田区西糀谷の安泰寺にあります。
椿年の墓も1994年にやっとめぐりあえたもので、あなた様のホームページに書か
れている画塾をしていたことは初めて知りました。(蔵前に住んでいたことは知って
おりましたが)
あなた様のご先祖の椿岳様は、小林椿岳という名前で認識しておりましたが、理由
が良くわかりました。
大西椿年について何かご存知のことをお教えいただければ幸いです。
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