2002/5/4

34歳声楽家の鳴海真希子さん死去
2002年4月30日、将来を嘱望されていた若き声楽家が神奈川県の北里大学付属病院で静かに息を引き取った。
鳴海真希子さん(青森市出身)。行年34歳。昨年5月に米ジュリアード音学院のオペラセンター(若手歌手研修所)を首席で卒業、プロの声楽家として輝かしい一歩を踏み出した矢先の病死に、国内外の音楽関係者から悲嘆の声が相次いでいる。
 鳴海さんは青高卒業後、岩手大学で本格的に声楽を始めた。身長170センチの体から発せられる力強いアルトの声、豊かな表現力はすでに際立っていた。向学心に燃え、さらに東京芸大に進学。同大大学院修了後、ジュリアード音楽院に留学した。
ジュリアードでの学生生活をつづった「ジュリアードの風景」は1997年10月から一年間、本紙夕刊(東奥日報)に連載され好評を博した。
父・秀さん(66)は「娘は負けん気が強く、ものおじしない性格。一方で向上心にあふれた努力の人だった」と振り返る。九九年にはジュリアード声楽コンチェルトコンクールで優勝するなど、次代を担う歌手として世界の楽壇から注目を集めていた。
 ところが昨年8月、公演先のコロラド州アスペンで突然倒れ、ニューヨークの病院に入院した。病名は軟部肉腫(しゅ)というがんの一種。発見された時は足首にできた病巣が腰まで転移しており、末期の状態だった。
同12月、NYカーネギーホールで開かれたジュリアードの演奏会が最後の公演となった。すでに車いす生活となっていたが、本番では痛む足を踏ん張ってステージに立った。曲目はマーラーの「復活」。自身と周囲の願いを乗せた歌声をホールいっぱいに響かせた。今年3月に帰国。亡くなる直前、駆けつけた家族を前に「私の一生は本当に幸せでした」と話したのが最後の言葉になったという。
4日に青森市で行われた葬儀には、県内外から多数の音楽関係者らが参列した。芸大の恩師・伊原直子さんは「鳴海さんは限りない可能性を秘めていた。音楽界は宝物を失ってしまった」と悲しみ、青高時代の同級生たちは「青森でのリサイタルを楽しみにしていたのに…」と声を詰まらせた。
追悼公演の動きも各地で広がっている。母校ジュリアード音楽院は追悼コンサートの開催を決めた。10月には世界的な中国人の作曲家・譚盾(タン・ドゥン)さんが鳴海さんのために作った歌曲「TEA」を東京・サントリーホールで披露する。
東奥日報より

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