私にとっての祖父(佐々木和亮【ささき・わすけ】:嘉永4.3.20−大正12.9.1.)は綱町の家の欄間にいつもかかげられていた写真しか記憶にはない。祖母(勢伊:清子:安政2.5.5.−明治23.11.24.)(伊藤八兵衛・いまの二女)は家のアルバムにあった写真しか知らない。
「久米の清ちゃん」に書いたように 父(哲亮)の一人の妹の(郁子)は(久米治平)と結婚し(清治)男一人生まれているが、二男として(康雄)が一緒に生活していた。
戦前家で皆ではだかで撮った写真があった。戦中に兄(正亮)が出征したとき家で撮った写真があった。(清治)は(里見喜代子)と結婚した。日記をみると清ちゃんが農学博士の学位をとった日(昭21.10.27)お祝いをしたとあった。農学博士のほかに後に東大柿沼内科であったか勉強して医学博士ももらったと記憶しているが、私の結婚後昭和29年(悦)を浦和の大田窪に住んでいた久米さんへ案内したことがあった。(郁子)は大田窪の貴族とか云われていた。皆で記念の写真をとった。清ちゃんがアメリカに行った話は前に書いた。現在東京にもどっているとのことであるが、最近は会っていない。
祖父(和亮)は(佐々木哲之進)(文化14.3.1.)(よう)との間に長男として生まれているが、姉が二人おり、長女(なよ)は(吉野英章)と結婚その子(篤)と(まち)との間に(龍夫)(武憲)(あき子)がいて、これらの方々の名前はよく聞いていた。また綱町の家にもよく顔を出し私のカメラに残っている。
(おまち)さんはよく母(かね)の口から聞いていた名前であり、私達の長男(章)が生まれたときも来ていただいた。
(あき子)は後に(旭興正)と結婚し、旭さんが獣医学の教授で北里大学にいたこともあって、南部にきたときもあき子さんのもとにいたときも両親ともども会いにいったこともあった。
次女(なか)は(和亮)の次ぎの姉で(山本雄三郎)と結婚、(まずる)(淳吉)(かづ)が生まれている。(淳吉)と(ふみえ)との間に(康太郎)(とし)(こと)が生まれ、その(康太郎)が(一松定吉)の娘(トシ)と結婚し、(英子)(美知子)(堅太郎:幼死)(次郎)と生むが、(康太郎)が結婚10年かに亡くなった。祖母(なか)が孫が死んでその翌々日かに亡くなった記憶がある。私幼稚舎の時兄と特急さくらに乗って大阪へいったときは皆元気であった。
祖父(和亮)がまだ景気がよかった頃か、(淳吉)が慶應かで勉強していたときだったかに家で書生かわりに世話をしていたとか。その(淳吉)が大阪で不動産で金持ちになって篠山に別荘をつくった。篠山は母(かね)の里でありその別荘があいていた。父(哲亮)が母(かね)と東京の家土地を売ってその家に疎開した。戦後昔のことがあるからとその家に父は気安く住んでいたが兄と私はそういつまでとはいかないと考えていたことが思い出される。
その孫の英子さんを嫁にほしいと私が雲仙にいたとき申し出た話、その結末は(わが青春の記録)として別に記録したいと思う。私が戦前大阪に行ったときとか、また東京の綱町の家に山本一家が来た時などよくスナップした。戦後も佐世保から田辺へまた東京へと移っていたときの手紙のやりとり、また箕面の家を訪問したことなどが思い出にある。
母(かね)の中に書いたように母の里の渡辺家はおんな姉妹が多く、末子に男は(立)だけだった。
母(かね)の姉(とし)が後妻にいった(志保田鉦吉)との間にできた(進)(ひろ子)(明)とは私と同年齢であったので、須磨への旅行とか、(進)の出征とか、志保田さんの紀元2600年の叙勲のときとかのスナップがある。
母(かね)の妹(みね)は(杉山元之助))に後妻にいった。実子はなかったが先妻の子(大助)(るり子)には色々思い出がある。大阪旅行のとき家によった。あとで分かったことなのだけれど(大助)は京大医学部卒で藤原元典先生と同期であり、また(るり子)後に結婚することになる婦人科の(吹田清純)も同期であった。(大助)は海軍軍医になった。任官のあと綱町の家に来た。
(るり子)は親戚ではあるが血縁ではないので兄(正亮)の結婚相手と父母が考えていたふしがある。我が家にも修学旅行の時またそのあとにもよく顔をみせた。なかなかの美人であった。平成2年徳島で学会があったとき本当に久しぶりに吹田さん夫婦に会った。るり子さんは体が不自由であったがホテルのロビ−で待っていてくれた。清純さんの方が先に亡くなった。
(立)は男の子一人で篠山での侍医の渡辺家をついだ。私も戦前戦後大阪に行くたびに父母が疎開したままになっていた篠山にはよく顔を出した。
主として関西方面の親戚を中心に(いとこ会)が開かれた。最初の会(昭和45年)は私は忙しく参加できなかったが当日の写真は頂いた。
母(かね)が亡くなったあと、昭和29年清里の兄(正亮)の世話でいとこ会が持たれたとき(悦)共々参加した。母の慰霊の前で謡いをうたい、一泊の会であった。それぞれ才能のある方々がいたことが思い出される。百人一首のカルタの名人・ハ−モニカの名人ともいわれる人がいた。
「和誠院仁誉浄義居士」「俗名佐々木哲之進後年改名称哲翁行年五十九年五ケ月」「明治九年六月六日卒」「墓播州加来郡太郎*(大夫)村来迎寺」(現:小野市市場町1185:来迎寺」住職橋本義然」・・・・へ行ってきましたと兄正亮から手紙と写真がきた。
梅窓院の先祖代々の墓が少し移動したとか。 また青山の和亮・清子の墓の前での写真を送ってくれた。