「豊田」の人々

 

 私が「豊田悦」とであったのは日記によれば昭和25年6月13日であり、結婚することになった。

 家内からあなたと違うのでと”厳命”を受けているので詳細を記録に残すことはしないが、それ以来”豊田の人々”との関係ができた。

東京へ勉強に出ていた娘が結婚したいと親に話をしたとき”どこの馬の骨か分からない者”との話であったとはあとで聞いたことであるが親としては当然の心配であろう。

 こちらも”ひとめぼれ”であったから彼女がどこの産でどんな人達にかこまれて育った人なのかは分からなかったわけでその点はあいこである。

 青森県西津軽郡鰺か沢町で昭和5年11月21日生まれで、そこに両親がおり、五所川原高女出身で、東京へは兄の藤輔のところに出てきて、千代田女子専門学校(現武蔵野女子大学)の学生であった。慶應の衛生から土屋健三郎君が保健衛生の講義にいっており、彼女が選んだ研究が”工業家の疾病”で、その指導をかね横浜にあった古川電池の工場調査についてきたというわけであった。

 鰺か沢というと戦後”君の名は”にでた町の名前であり、最近は”舞の海”で名前がでる町であるが、「豊田」という姓は愛知あたりからでた名前のようで、「松前がよいの船がゆく」と「鰺か沢甚句」の文句にあるように、昔北前船での北海道の松前への道筋にあたる鰺か沢港へよった「豊田初太郎」(悦の父)が地元の一戸家の長女(たみ)と結婚したのであって、(悦)はその五女である。

 「豊田」は(とよだ)と読むか(とよた)と読むかははっきりしないが、そのアクセントは(よ)にあるので、東京読みとはちがう。(TOYOTA)が国際的に有名になったので、英語では(TOYOTA)と書くことにしている。

 結婚したあと昭和28年に始めて鰺か沢へいったその時の写真がアルバムにあった。

豊田初太郎

今は町中になっている道路も海に面しており 馬車が走っていた

  

一丁目とか二丁目といって区別していたが 町中央に長男の店があった

 

初雄(長男)・初律(長男の長男)・初太郎(父)・誠治(三男)

 

三上昭子(四女)ら       豊田初太郎       

結婚して長男の章が生まれたとき 東京在の藤輔・一戸耕悦がアパ−トへきてくれた

 

一戸耕悦 たみ(母) 悦 章        豊田藤輔(次男) 悦 一戸耕悦

昭和29年 弘前へきて 次男(修)が生まれる前に

  

悦 章 豊田たみ        豊田初太郎 昭和29年 弘前にて

昭和30年次男修が誕生したとき 柳谷春枝(次女)や米野瑞子(六女)が見舞いにきた

  

柳谷春枝と子供達          米野瑞子   

豊田初太郎 昭和38.2.9.死亡 葬式場にて

 

一戸家次男から浅瀬石鳴海久兵衛(十代目)へ養子縁組があった

  

 

鳴海久兵衛夫妻 昭和40年       豊田たみ 昭和40年

この子息が現在黒石市長になった

豊田たみ 昭和60.11.27.死亡 葬式場にて

昭和34年 悦章修と上京したとき荻窪の豊田藤輔(次男)の家へよった

豊田藤輔らと 

柳谷春枝(次女)福原輝(三女)三上昭子(四女)佐々木悦(五女)米野瑞子(六女)

平成5年 十和田にて

悦 昭子 輝 誠治 瑞子 鰺か沢にて

輝は福原実と結婚 

  

 輝 福原実         輝 泰樹          泰樹ら  弘前にて 昭和29年頃

昭子 瑞子 悦 友人 (昭和23か24年の夏 東京から帰った時か)

悦のアルバムにいくつか古い写真がはってあった 写真屋さんに気に入れられたらしく

撮ってもらったものが しばらく店に展示されていたとか

 

 

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