「上野発夜行列車おりたときから」ではじまる「津軽海峡冬景色」は私の持ち歌の一つだ。
いつか大阪で同級の大和田国夫君と一緒に飲んでこの歌を口ずさんだ時、「さすがご当地だ」といわれたことを思い出す。
女子大の会で歌ったとき「三連符だよね」とおっしゃったのは音楽の葛西先生だったが、譜面をみると「三連符」で出だしがはじまるのだが、ここが大切なのであろう。
「青森駅は雪の中 だれも無口で うみなりだけを 聞いている」とつづくこの歌は 長いプラットホ−ムを 黙々とあるく 人のむれを 頭に画くと つい気分がでるのだが 今はその風景はみられない。
私が「上野発夜行列車」に乗って「弘前駅」に降りたのは昭和29年であった。
弘前大学医学部の助教授として赴任のため家内と生まれたばかりの長男と三人で。
東北本線ではなく奥羽本線の急行津軽だったと思う。寝台車のないころで奮発して二等車だったか。
先輩の小野定男先生の世話で 若党町にできたばかりの市営住宅に入ることができた。弘前でははじめてのブロック建築の住宅であった。
でも冬の暖房は考えられておらず 向うの家では炭俵をつんでいたので CO中毒が心配だとすぐ思った。なぜなら慶應でCO中毒の研究をやっていたからである。我が家では 煙突のアナをつくって スト−ブ暖房にした。丁度教室で部屋の暖房と高血圧予防の研究を始めたばかりだったから 自動温度計をいれて室温測定をしてみたが ブロック建築の住宅では 冬でも最低10度Cを降らない 即ち火をおとしても保温の効果が夜も持続することを確かめた。
教室では私が助教授 武田壌寿君が仙台から 伊藤弘君が倉石診療所から助手になって 高橋英次教授と四人で スタッフがそろった。
年が明けて昭和30年元旦 教室へ出勤し 高橋先生のお宅へ年始の挨拶にいった。在府町から官舎のあった御幸町まで歩いた。
富田のシツコという共同のわき水のでるところがあった。洗濯の人もきていたが昔ながらの風習で下のほうで洗濯していた。