「東北初の共産党代議士で、地方の医療、文学の発展にも尽くした故津川武一氏の記念碑(津川武一・生誕の地碑)が生誕九十年目の今年、浪岡町吉内の生家に建てられた」と東奥日報紙(平成12.8.12.)に報道された。蟻塚亮二君らが碑建設実行委員とあった。
いつだったか弘前市立郷土文学館で津川先生の作品の展示会があったとき、その展示物の中に私が陸奥新報の依頼を受けて書いたもののコピ−があって、そのことを事前に知らなかったので、恥ずかしいような、嬉しいような気持ちがしたことがあった。
「書評」のような記事はいくつか書いたことがあるが、今日はこの時の記事を記録とし、津川先生のことを書き留めておきたいと思う。
陸奥新報(昭和48.1.20.)の記事の見出しは「文学と医学との橋渡し」津川武一著「苦悩の文学者」−作家の精神構造−であった。
「このたび造形社から刊行された「苦悩の文学者」−作家の精神構造−を手にして、去る昭和四十年五月弘前市民会館で日本衛生学会総会の「津軽の文化と医学」の公開講演会の中で津川先生が「医学と文学」について語られたことを、今あらためて思い出すのである。 先生は、医学と文学との橋渡しをする機会を与えられたことを感謝し、疾病と文学、作家の精神、そして風土と文学について論じ、さらに自殺論をつけ加えて完成したものにしたいと結ばれたのだが、それが今この本になって一般の方々の手に渡るようになったことは、文学と医学の橋渡しの意味からいって喜ばしいものだと思う。
本のあとがきで述べられているように、先生がこのようなことに興味をもたれたのはかなり昔のことである。
「私は大学医学部を卒業し、精神医学の勉強をはじめたばかりであった。そんなある日、私たちの医局で教室の先輩としての斉藤茂吉さんを囲むことができ、そのとき茂吉さんは−私が人磨の研究で何か新しいものを探しだすことができたとすれば、それは医師であったおかげである−という意味の話をしてくれた。茂吉さんの言ってくれたことは、なにとはなしに、私の胸にひっかかり、精神医学を勉強するかたわら私もいつしか人磨や万葉を手にするようになった」と。
実際戦時中の軍医時代に読んだ古典は「文学解明の手段としての医学」となっている。新古今集の選集と新古今集の歌人たちにもっとも影響を与えた藤原定家は「てんかん」と規定することによって解決されるとのべている。また頼山陽が「日本外史」を世に出し、維新の原動力たらしめたものも実は彼の性格とその性格の基礎にある「そう病」であるとしている。
疾病と文学については「文学をするエネルギ−としての疾病」と「疾病は文学を育てる一つの力であると思う」と結ばれているが、正岡子規と結核、北条民雄という例をとり上げ論じている。これらは疾病構造が急速に変貌している現在、今までの日本的な疾病になやんでいる方々の作品を克明に記録しておくことは、医学者としての重要な民族的な任務であると考えられる先生の気持ちからでた作品であろう。
夏目漱石、芥川龍之介の例ものべられているが、狂人をあたたかい目でえがいた菊池寛の作品についての感想には胸をうつものがある。
さらに作者の精神については、先生の文学論、そして津軽の風土、そのいろいろな意味でのゆたかな風土に生まれた作者の精神構造を論ずるという立場からと考えられるが、ここでは太宰治、葛西善蔵をあげている。先生に社会主義をはじめて教えてくれた方が身内にいるという気安さからか、太宰治を「自我顕示」ときめつけるあたり、多くのファンを納得させることが出来るかどうか、精神医学への理解のむずかしい点であろう。
最後に広津和郎、三島由紀夫そして川端康成と最近の労作がのせられている。
その結びの言葉として述べられていることは、文学と医学のはしわたしというより、文学と政治のはしわたしというべきものであるが、先生としてはこれまた同じ路線にそった作品であるといわれることであろう。(四六判二三五ペ−ジ、東京都世田谷区南烏山五ノ二三造形社、六00円)(弘前大学教授)」
津川先生は1910年(明治43)8月2日、五郷村(現浪岡町)生まれ、東京帝国大学医学部在学中日本共産党に入党、戦後県委員長などを歴任し、五期十三年にわたり衆議院議員を努めたとあった。
私が日本衛生学会を引き受けることになり、その中で公開講演会として「津軽の文化と医学」を計画し、その中で津川先生に講演をお願いにあがったのは、元寺町で病院をやっておられ、県会議員もやっておられる頃であった。 戴いた題が「医学と文学」ということであった。その内容は学会記録として「津川武一:医学と文学,日本衛生学雑誌,20巻3号,203-209,昭和40年(第35回日本衛生学会総会号 )にあるが、学会長の私のことを考えられたのか、「政治的」な意見・主義・主張はのべられなかった。
だが先生の生まれ育った時代、その時代の津軽における農村の姿、その中で苦労された両親の姿は、その中で東京帝国大学医学部へ進学され勉学された先生として、共産党へ入党され、津軽保健生活協同組合・健生病院を創設され、そして県会議員から国会議員として活躍されれたことの背景にあったのであろう。先生は議員になったあと「農業に、米とりんごにとりつかれ」一貫して「農林水産常任委員」として「日本共産党の農林水産大臣」といわれた(田辺良則:陸奥新報,2000.7.21.)とあるのはうなずかれることである。
前述の「苦悶の文学者」のほか「医療を民衆の手に」(民衆社,1969.)「りんごに思う」(北方新社,1985.)「癲癇の歌人藤原定家」(医療図書出版社,1987.)「天皇はいま何を考えていますか」(弘前民主文学,1988.)を「そまつなものですが」と添え書きをつけて「議員になると有り難いもので本を出してくれるのですよ」と笑いながら戴いた記憶がある。
「りんごに思う」の中でりんごの生産者を助ける意味でいくつかの提言を書かれているが私のりんごと高血圧に関する研究を紹介し、国会(1984.4.19.)でも「こういう宣伝はりんごの消費拡大に大いに役立つ。政府としても手を打ってくれ・・・」と発言されていることが書かれていた。(p.85)
長男や次男が附属小学校にいた頃であったが、小学校の文集かなにかに、「自分の支持する政党」というアンケ−トの数字がのっているのを見たことがあった。なんと7-8割の児童が「共産党」を支持しているという結果であった。(20000830)