海外旅行

 

その4 メイヨ−のこと

 

 Mayo Clinic のことは よく話題にでた。

 医学文献にもあったし、アメリカ中の金持ちの病人が集まる病院とのことだった。

 私が弘前に来たときの学年であったクラスの今学長をやっている吉田豊君がメイヨ−へ行っていた話もあった。

 ミネソタ大学へ滞在していたとき 同じ州内のロッチェスタ−の”メイヨ−”へバスで日帰りで見学にいった。

 街に入ると、ホテルが何軒も目についたが、それらが皆メイヨ−に受診する患者の泊まるホテルだとの話もあった。

アメリカの国旗がはためいている建物が目にはいってきた。

 

 

 近くに公園がありそこに記念碑があるということだったので、まずそこを見に行った。冬の雪景色の中、メモリアルのメイヨ−の父の像とメイヨ−兄弟の像があった。

 

 メイヨ−の建物は旧館と最近建ったばかりの新館がみえてきた。新館はなかなか斬新な建物であった。

 

 

 ちょっとはなれた所にカルテなどの資料の保管のために、またこれらの資料から統計計算する計算機の入った新しい建物が建っていた。新しい建物らしく「エヤコン」を部屋ごとに調節できる器械が壁についたいた。

 その主任のDr.Kurlandにあう約束があった。

 Dr.Kurlandは日本の脳卒中死亡統計について国際学会でコメントをつけ、それが冲中重雄先生が「日本人の脳卒中の特殊性」の研究班を組織したのだという話もあった。

 1981年エジンバラで開催された「国際疫学学会」のとき再会した。

 

稲葉・籏野・Dr.K・吉村・佐々木

 

 メイヨ−には忘れられない思い出がある。

 病院に入ると、診察室・病室の見学は出来ず、一般見学者のためには講堂で「PR映画」が上映されていた。それも「患者」ではなく「俳優」をつかっての診察・入院の状況を説明する映画であった。

ここのドクタ−は白衣は着ず平服のまま患者に接するとも説明されいた。

 

 病院の成り立ち・歴史など書いた、小冊子が配布された。

 そのとき印刷されていた「メイヨ−兄弟」の写真が、ちょっと前に私がシャッタ−をおしたときのイメ−ジと違うのである。兄弟の像が左右逆の印象をうけた。

 PRのためのパンフをもってもう一度現物を確かめに行った。たしかにミスプリントであった。

 ミネソタ大学に帰ったあと、書面を病院宛送ったら

「あなたが初めて指摘してくれた」との返事を受けとった。

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