衛生学教室Newsから(2)柴垣さん退職を祝う会
1986.3.7.(昭和61年)
「柴垣和子さんの退職を祝う会」 弘前第一ホテル・午後6−9時
「量より質の精選オ−ル中華料理を注文しました」(仁平將)
主賓おみやげをもって30分前に。
「衛生学教室のぬしを送る会をやらないわけにはいかない」(発起人代表武田壌寿)
「一番近くにいて一番遠くにいた先輩の秘書役の人に助けられた。感謝の気持ちと益々若く幸福なこれからの生活を祈って乾杯」(佐々木直亮)
「3年に一度しか誕生日がこない方。前とちっとも変わらない柴垣さん」(田中和子)
「昭和31年”あれ有馬稲子がどうしてここにいるの”とショックを受けて以来、途中下車せず長い旅がつづいて」(小野淳信)
「大変お世話になりました。このズボラなわたし。とにかく美人だな。独身かな。はなもやるし、そして短歌も」(山田信男)
「一番長いつきあいかな。さて何をいおうかな。スキ−かな。そうだ42年だったかRABのアベック買い物競争のこと」(成田尹)
「これからはご旅行を。青森にも」(加賀スサ)
「美人だというほかに、なんとあまい声だな、よく電話しました」(中村久造)
「ほろにがい青春時代を、面白い教室での”わるい子”でした」(工藤輝昭)
「能力のないのに自活しようとした青春時代からいままで」(石山隆一)
「私は白い花、良いことも悪いことも染まって。好奇心旺盛なひと。今おなじように子どもをしつけています」(三浦清子)
「私が第一印象を受けたのは小野先生のあと20年。すてきなおばさま。おとしがめしてからお美しいのは心がお美しい。柴垣さんの若いときのような女性と結婚したい」(神裕)
「ながいことご指導いただいて有り難うございました」(竹島千秋)
「おさな心に聞いたあの声だけは覚えていました。教室にくるようにお電話いただいたときに」(武田俊子)
「教室のおかあさんという感じで。柴垣さんがいないと」(福士襄)
「どれひとつみをいれているものはない。教室とだんなさんのこと以外に。まず休んだことがない。みならいたい」(三上聖治)
「津軽の女性のユニ−クな生き方を目の当たりみて」(武田壌寿)
「自作思い出の町弘前春夏秋冬ブル−ス披露」(津島律)
記念品贈呈(旅行券とか)
一言あってもいいかと思うんですけど(司会仁平將)
「今日は私のためにこうゆう席をもうけて戴きまして本当に有り難うございました。ながいことお世話になりまして感謝しております。もうねっからの怠惰に生まれていますので、退職したあと何しようかと考えているのですけど、これをしたいとか、あれをしようとか全然おきて来ないので、どうしようかなと考えていますけど、まあ死ぬまで退屈しないように、あまされないように、ぼけないように、生きてゆきたいと思っています。どうも今日は有り難うございました」
もとへもどる