「医療今昔物語−学説・診療の変遷」 高血圧

 

はじめに

 

 私が「血圧」について学んだのは慶応義塾大学医学部での教育を受けた時であって,内科診断学で西川義方著「内科診療ノ実際」による血壓測定法を知り,衛生学(予防医学教室)で体位変化による血圧変動をみる「ポイント・テスト」という実習があったことが思い出されるが,今から50年以上前のこと(昭和18年9月卒業)である。

 戦後昭和29年に弘前大学助教授として赴任し,昭和31年に教授となって衛生学講座を担当することになったが,日本の東北地方で「あだる」と言われていた病気の謎ときに取りかかることになった。研究のテ−マおよびその目的を「東北地方住民の脳卒中ないし高血圧の予防に関する研究」とした。

 「高血圧」について述べることは優に一冊の本になる話題であるが,ここではそれ以来「高血圧」について学んだことが中心になることをおゆし戴きたい。

 現在循環器系疾患とまとめられているが当時の死因分類が示すように疾患部位としての「中枢神経系の血管損傷」と「心臓病」とに分けて考えられていた時代であった。死亡率からみた問題の関心もわが国では「脳卒中」に,国際的には「心臓病」にあり,またそれらの疾患に関連があると考えられるようになった「動脈硬化」「高血圧」に関心が持たれるようになった時代でもあった。

 わが国ではすでに昭和16年(1941年)「脳溢血」という総合研究(日本学術振興会の第43小委員会)が始まっているが,この研究班ができたきっかけは「日本人に脳卒中死が各国に比べて格段に多いこと」を渡邊定先生(以下敬称を省略させて戴く)によって指摘されたことであったと考えられる。

 脳の血管障害はわが国では「脳溢血」(脳出血)であったが,欧米では「脳梗塞」が関心の中心であった。

 1961年(昭和36年)ロ−マで開催された第7回国際神経学会のとき示された資料の中で「日本は脳血管性障害が多いが,ことに梗塞に比較して出血が極端に多すぎる」と批判されたとき「いかにも(日本の)一般的な医学的レベルが低いんだと言わんばかりの口調で,私どもとしましては残念ではありましたが,すぐさまそれを反駁するだけの材料が手になかったわけであります」と冲中重雄が述べている。

 しかし国際的には心臓病で,それも動脈硬化性高血圧性心疾患に関心がもたれ,第1回の世界心臓学会(World Congress of Cardiology)がパリで開かれたのは1950年であった。1954年に第2回世界心臓学会がワシントンで開催された時木村登が日本の冠状動脈硬化が殆どみられないという病理所見を発表し世界に注目されたが,これはわが国の脳卒中死亡率が高率であることではなくて,日本の心臓病の死亡率が低かったことが,キ−ス(A.Keys)らの興味をさそったのではないかと考えられる。

 わが国では「高血圧」に関心がもたれるようになった昭和29年から31年にかけて「医学シンポジウム第5輯高血圧」(前川孫二郎他著・診断と治療社),「生活と高血圧」(福田篤郎著・文光堂),「異常血圧」(加藤義夫著・医学書院),「高血圧症」(上田英雄・武内重五郎著・医歯薬出版),「眼血圧」(植村操著・金原出版),「最新の保険医学」(一色嗣武著・メヂカルフレンド社)といった著書が相次いで発刊された。

 

 I 血圧と高血圧

 

 東西の医学において「脈」の認識は人々の触覚によって早くから認識されていた。動脈硬化のことをスクレロ−ゼ(sclerosis)というが,この語源はギリシヤ語のskleros(硬い),-osis(状態)ということである。

 しかし「血圧」という概念は西欧の解剖学から生理学誕生の時代に生まれた。

 ハ−ベイ(W. Harvey)は「動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的実験」(1728)によって血液循環の理論を述べるが,すでにヘ−レス(S. Hales)は1711年頃から動物の動脈に管をさして,血液が血管壁に圧を働かせていることを観察し,その結果を1733年に発表している。

 19世紀前半に臨床医学の実績が報告される中でロンドンのガイ病院(London's Guy's Hospital)には後に「ガイの大物たち」呼ばれる傑出した学者が現れるが,そのうちの一人ブライト(R. Bright)は「腎臓病と浮腫」に対して病理解剖を熱心に行い,また患者の尿を分析したりして,12年にわたる臨床観察例について1827年に報告した。この「ブライト病」と呼ばれるようになった症例は,後日血圧測定が行われて 200mmHg 以上あったことが1880年に記載された。

 1898年チイゲルシュテット(R.Tigerstedt)とベルグマン(P.G.Bergmann)はウサギに静脈注射して血圧の変化を調べていたところ,他の臓器抽出液では血圧は変動しなかったが,腎抽出液では明らかな昇圧反応を認め,この昇圧物質をラテン語の腎臓(ren)に因んでレニン(renin)と命名した。その後の研究の展開によって,レニン・アンジオテンシン系の確立などレニンと高血圧の関連が解明されることになった。

 1934年に至りゴ−ルドブラット(H.Goldblatt)らはイヌの腎動脈を狭窄すると血圧が徐々に上昇することを見つけ,実験的に高血圧動物をつくることに成功した。起こされた病変が高血圧性心血管病として認められるには,血圧の上昇・心肥大・血管の変化の三つが揃うことが必要であるが,種々の実験的高血圧症が検討された。

 血圧を維持することは生命保持に必要な条件であり,とくに出血などによる血圧低下は問題であり,血圧の生理的調節機能について研究された。ガイトン(A.C.Guyton)らは多くの異なった調節機構によって,あるものは速やかに,あるものはゆっくり,それぞれの血圧の平衡状態を保つようフィ−ドバックされていることを報告した。

 わが国で日本人について血圧測定が行われるようになったのは明治の終わりから大正にかけての頃であった。臨床的に患者の血圧が測定されるだけでなく,血圧の生理学的研究,病理学的研究,実験的高血圧研究が行われ,また同時に展開中の内分泌学との関連が検討された。臨床医学的には高血圧をもった患者の予後が検討され,生命保険事業の中における生命保険医学によって血圧との関連が研究され,また広く人類学的研究への血圧の応用と同時にさらに疫学的研究の中で高血圧の研究は展開されることになった。

 われわれが研究を開始したのは昭和29年であるが,この時点での「高血圧」についてのわが国における定義・統計と病理・病因・診断・経過及び予後についてみると,次のような点が記載されている。 

 「高血圧症とは心腎脈管の系統疾患の一つで、血圧が最高,最低において異常に高いということがその疾患の中心症状となっている。普通その経過は非常に緩慢で10年以上に及ぶが,中には比較的迅速な経過をとって1-2年以内の短日月で死亡の転帰をとるものもある。前者は良性高血圧症,後者は悪性高血圧症といわれる。その区別は主として眼底所見に目標がおかれている。」

 「死の転帰は卒中,心不全,腎不全であり、悪性の際は主として急性腎不全である。」といい,「高血圧というものは一つの症状にすぎない。だから他の症状と場合と同じように,その原因はいろいろでありうる。しかし今日その原因の分かっているものは極一部で,殆ど大多数のものはその原因は皆目分からない」とし,腎性疾患,脳神経疾患,最近頓にその重要性の注目されだしたものはいろいろの内分泌性疾患であるとしていた。

 

 II 高血圧症か高血圧か

 

 ピツカリング(G.W.Pickering)が高血圧という疾病は正常状態からの量的な偏位にすぎず,質的なものでないという考え方を述べて,「高血圧症」が一つの実存物としての疾病(a disease entity)であるかどうかと国際的に論争を駆り立てたが,私が「血圧論」を昭和38年の日本医学会総会のシンポジウムで報告したときも標題は「高血圧症」であった。

 臨床的に患者とくに腎臓疾患をもつ患者が高血圧を示したことが「高血圧症」の症例として認識させたことは理解されるが,しかし患者としての症例の血圧値の統計的検討が始まると,当然血圧値の平均値とか分布の状況についての解釈について論争が起こるのは当然であったと思われる。

 現代でも多くの臨床家はその患者を治療しながら「高血圧症」を問題にし,その立場から研究が展開されていると思われるが,個人の血圧値とは別に人々についての血圧値の資料が集められると,臨床とは違った見方・考え方が生まれてくる。その一つは生命保険事業の中での血圧値の集積であり,もう一つは集団検診で集積される血圧値についての検討であった。

 アメリカの生命保険事業の中で血圧測定が試験的に取り上げられたのが1906年,多くの会社が最高血圧を測定を実施したのが1911年,最高血圧と同時に最低血圧も測定されるようになったのが1918年で,1925年に委員会が血圧調査についての報告書を出した。わが国で生命保険の診査に血圧測定が実施されたのが大正12年(1923年)であって,それらの資料の統計的観察による成果が生命保険医学雑誌に掲載されることになった。

 これらの研究によって日本人の血圧の状況および血圧値と生命予後との関連が次第に明かになり,また臨床的の脳血管疾患と高血圧とが関連していることが認められたことから,わが国で始まった「脳溢血」についての系統的総合研究の中で,生命保険事業による血圧資料とか日本内地・朝鮮・台湾各地での住民の血圧について報告されるようになったものと思われる。

 「高血圧症」か「高血圧」かの問題は人あるいは人々の血圧をどう考えるかの「血圧論」に関する問題であって,私なりに「血圧論」を述べたところであるが,現在までに種々の理論が展開されているところである。

 WHOの専門委員会が1983年に「Primary Prevention of Essential Hypertension」の報告書を出したがこれは「高血圧の一次予防」と訳されている。そのはしがきの中で「表題の本態性高血圧を邦訳で単に高血圧としたのも,”本態性”という言葉自体,現代医学においては必ずしも適切でないという意見が委員会ででもかなり強かったからである」と述べられている。 

 本誌への原稿依頼の表題が「高血圧」となっていることも時代のしからしむるところかと思う。

 

  III 血圧測定法

 ヘ−レスによる血圧測定は方法論からいえば血管に直接管を差し込んで血圧を観察するから直接的な観血的な方法であった。

 脈について体外から間接的に圧をみる脈圧計(sphygmomanometer)による血圧測定はバッシ(S.von Basch)にはじまり,その圧の正常値は水銀柱で135-165ミリであり,ブライト病の場合は血圧値は200ミリをこえると1880年記載された。リバロッチ(S.Riva-Rocci)ははじめて触診によって最大血圧値を知り,臨床に応用できる簡便な水銀血圧計について1896年に報告した。その血圧測定の原理は現在に引き継がれているが,上腕にまくゴムの袋(ドイツ語でマンシエツテ,英語でカフ)の巾が狭かったのを,レックリングハウゼン(H.von Recklinghausen)はカフの巾を5cmから11-13cmに増やすことによって正確な血圧値を得るようになったことを述べた。コロトコフ(N.S.Korotkov)は聴診器を上腕の窪みの脈どころにあてて「リバロッチのカフを上腕に巻き、完全に循環が止まるまで圧を上げてから、圧を下げてくると、はじめはなんの音も聴こえないのが、あるところへくると、はじめて短い音が現れ、これが最大血圧に相当し、・・・」と聴診法によって最大血圧・最小血圧を知ることのできる血圧測定法を1905年に発表した。この方法は血管に直接管を入れるという血をみるのと違って非観血的な方法で,聴診法による間接的な血圧測定方法であった。臨床にすぐ用いられる方法であったので,すみやかに全世界に広まった。

 われわれが東北住民について血圧を測定し始めたときまず地域社会で集団的に血圧測定するときの方法を確定することであった。

 アメリカ(American Heart Association)とイギリス(Society of Great Britain and Island)と合同で1939年検討されていた方法があり,また臨床における血圧測定方法を参考にして,集団的に血圧測定を実地に行うときの諸条件を考慮にいれて血圧測定方法を定め,東北地方住民の血圧の集団的観察を開始した。

 血圧測定法についてはわが国では昭和33年以来日本公衆衛生学会での高血圧自由集会で検討され,昭和41年に日本循環器管理協議会(日循協)が発足してまず最初に取り上げられた診断手技に関する研究の中での血圧小委員会において検討され,その結果一般に血圧測定が行われるときに最小限守られるべき方法が昭和42年に報告され,厚生省を経て全国に広く普及した。細部についてはまだ研究すべき点がのこされているが,昭和54年に改訂が行われ報告されている。

 1965年から66年にかけての在外研究の折りにわが国での血圧測定成績を述べる機会があったが,自分自身が聴診法で測定した血圧値も「信用」されていないという印象を持った。それは一般に用いられている水銀血圧計で260mmHg以上の血圧の人が日本の東北地方には沢山いるとか,子供の時から血圧が高いとか,季節変動するとか,という成績であった。そこで世界を納得させるには,血圧測定方法に「主観的」な要素を除き「純客観的」に血圧測定値を示すことを模索しはじめた。丁度国際的にも血圧測定の自動化の時代にあって,1966年シカゴで開催された第1回の客観的血圧測定に関するシンポジユムに参加し国際的な現状と問題点を知ることができた。帰国後われわれは血圧測定の自動化客観化について種々検討したが,HBMS(Hirosaki Blood Pressure Measuring System)の考案までに到ったいきさつについては「自動血圧計覚書」に述べておいた。

 また日循協としても昭和51年以来自動血圧計について検討をかさね問題点を指摘し,自動血圧計による血圧測定の手技につて報告した。

 

  IV 高血圧の定義

 

 現在一般的に「WHOの高血圧の定義」というのがまかり通っているようであるが,「WHOの高血圧の定義」というのはないと思う。あるのはWHOでいえばWHOの専門委員会報告(Technical Report Series)に述べられているものであって,1959年のNo.168のレポ−ト以降である。それ以後のいくつかのレポ−トによる定義があるだけで,それも報告によって見解は種々あり,具体的にその数値も異なる。

 WHOのTechnical Report Seriesというのは,WHOの国際的な専門家グル−プによる見解をまとめたレポ−トであって,必ずしもWHOの決定とか,定められた政策をあらわすものでない。「does not necessarily represent the decision or the stated policy of the WHO)と書かれていることが忘れられていると思う。

 人および人々の血圧をどのように理解するかについては,臨床的に,生理学的に,また最近では疫学的に種々考察されるようになったことについてはすこしふれたが,1958年になってWHOの専門委員会で,はじめて高血圧と心臓病の疫学的研究における分類と基準についての見解を報告した。

 この報告書では,人口集団の血圧値は連続分布をし,正規分布ではなく,正常(normotensive)と高血圧(hypertensive)の人をはっきり分ける線はないが,しかし,分布の上限下限には,ある確からしさをもって,それなりの理由のある等質の群があることで,個人については意味はないが,人口集団についての統計的応用のために,切断点(cut off point)「below 140/90 mmHg - normal range」「160/95 mmHg and above - abnormal(hypertensive) range」を用いることを提唱した。

 その後WHOでは循環器疾患関連の専門委員会のレポ−トが報告され,それぞれの見解が示されているが,1978年の報告によれば,血圧水準を”normal"と”hypertensive”とをはっきり区分できないことを再び強調し,正常も成人の血圧は任意に最高血圧については140mmHg(18.7kPa)以下,最低血圧については90mmHg(12.0kPa)以下徒,高血圧は最高血圧160mmHg(21.3kPa)以上,最低血圧95mmHg(12.7kPa)以上と定義された。

 WHOが血圧の単位としてキロパスカル「kPa」を表示するのは,世界度量衡総会によって開発された国際単位系(SI:Le Systeme International d'Unites)を1977年の第30回世界保健総会によって支持されたからであるが,世界医師会また世界心臓学会にも支持の依頼があったが「血圧値についてはmmHgで」との意向のようである。

 高血圧に関する血圧値の数値が表示されても,それは血圧測定器具,血圧測定方法また測定値記録方法などに左右されるので,血圧測定の目的に従って決めるべきもので,それも人および人々の血圧をどのように理解するかによることと思われる。

 最近ではWHOと国際高血圧学会との合同委員会で高血圧管理へのガイドラインが示されている。

 1972年以降アメリカでは4年ごとに「高血圧の発見,診断および治療に関する合同委員会」での報告を出し,1992年の第5次報告では「正常血圧 <130/<85」「正常高値血圧 130-139/85-89」「軽度高血圧 140-159/90-99」「中等度高血圧 160-179/100-109」「重症高血圧 180-209/110-119」「きわめて重症高血圧 ≧210/≧120」となっている。

これらの高血圧の定義の変遷を見ると,次に述べる疫学的研究の成果が理解されるようになったのではないかと思われる。

 

 V 疫学的研究の展開

 

 わが国で「高血圧の疫学的研究」が展開されるようになったのは丁度われわれが研究を始めた頃といってよいであろう。

 ハ−バ−ド大学疫学教授のゴルドン(J.E.Gordon)が来日し講演した題名は「医学的生態学としての疫学観の発展」であった。疫学観がヒポクラテス以来ベ−コン(R. Bacon)をへて,「多要因疾病発生論」へ展開されてきたこと,また「追跡的疫学調査」の重要性にふれている。

 「疫学研究50年抄」によれば「この当時はじめて”高血圧の疫学”や”健康の疫学”などの言葉が使われた時は,特に第一世代の方々から大変な抵抗があったことを覚えている」と述べられている。

 「疫学的アプロ−チ」は基本的に一人の患者,あるいはその人の中の部分に目が向けらるのでなく,人々の研究から始まるということである。そのために血圧測定方法を決め血圧計をさげて人々の中に入っていった。昭和61年に定年退官なるまで展開した疫学的研究の総てを述べることは紙面がゆるさないが,横断的疫学調査から始まって,追跡的疫学調査,一部介入的疫学までの結果を考察したが。われわれの研究の目的が「予防」にあったからではあるが,一言で云えば「疫学的研究の展開による血圧論から食塩文化論へ」ということになろうか。

 疫学的研究上の成果といえば,人の血圧値を「生体情報」として客観的に捉えるということ,地域人口集団の健康情報としては計画的な疫学的によらなければならないと思われること,人および人々の血圧をどのように理解するについて「個人評価」と「集団評価」という考え方に従って,「高血圧についての疫学的研究は,人間の集団の血圧から始めなければならない」と述べ,具体的な血圧値を示し,「グロ−バル」にみた人々の血圧水準と分布と日常摂取されている食塩との関連についての仮説を示したが,最近の国際的な研究でも成果が得られつつあり,血圧水準と循環器疾患の罹患と生命予後とに関連のあることが,追跡的疫学調査によって国際的にもわが国で認められるようになった。そして介入的疫学調査の成果が報告される時代になった。

 また「加齢と血圧」,「ヒト高血圧発症のリスク因子」について考察し,「血圧の個人的特性」の考察への論理的根拠が「疫学的研究」によって与えられてきたと考えた。

               (臨床科学:32(2),240-246,1996.)   (もどる)