札幌で学会(第66回日本衛生学会:厚生年金会館)があったついでに、久しぶりに、北海道大学の構内を歩いてみた。
地下鉄南北線北12条駅で降りて昔のことを思い出しながら構内に入った。大学図書館をみたいと思い、学生に道を尋ねた。
「あの”クラ−クさん”のところを回って」という言葉が返ってきた。
それが極めて自然で、印象的であった。
昔どおりに”クラ−ク像”はあった。
”Boys,be ambitious”とあるクラ−ク像の写真を撮ったことを思い出した。私のは白黒だったが、私を入れて撮ってもらった当時めずらしかったカラ−スライドもある。
帰宅後「衛生学教室のアルバム(13)」を見てみたら、昭和32年7月の第30回日本産業衛生学会に行った時撮った写真には、「像」のすぐそばに第1会場の建物が写っており、すっかり様子が変わっていたことが分かった。もっともその後の学会がすぐそばに新築されたクラ−ク会館で開かれた思い出もある。
図書館へ入ってみたら「北方資料室」という部屋が4階にあると掲示されていたので、何か面白い資料があるか一寸のぞいてみようと思った。「国立大学図書館共通閲覧証」をもっている。
「はじめてですか」「何をお調べですか」と入口で聞かれた。
「資料はほとんど倉庫に入っていますが」
とっさに前前から気になっていることが口に出た。
「クラ−ク先生の”Boys, be ambitious”のオリジナルのことですが・・・」
親切に、またすぐに、「これが書かれたもの」と小冊子を見せ、表紙と一番大事なところのコピ−を「差上げましよう」といわれた。
「その他こんなのもありますよ」といくつか教えてくださった。名前は聞かずじまいだったが、係の方にあらためて感謝しておこう。
昭和32年の時、出来たばかりの札幌−千歳間弾丸道路のわきに立っていた「帰国に際し島松まで見送った学生たちに向って馬上から最後に一声のべたといわれる」「青年よ 大志を 懐け」(ウ井リアム・エス・クラ−ク)の記念碑をみたことがあった。その写真もアルバムにあった。
以前学園紛争はなやかなりし頃、クラ−ク像に白ペンキで「Boys, be revolutionary」と塗らたという報道をみて、「そのあと”for”以下に何とあるのか知っているのか、”大志”によい”革命”によっているのではないか」との小文を書いたことがあった。(衛生の旅,1,p69.)
平成7年の女子大(柴田ではなく聖愛)の学園祭のテ−マが「Girls, be ambitious」であった。時代である。
でもその言葉の本当の意味は何なのか。どのような経過で有名になったのか。
資料として観せて戴いたものは「比較的近年まで北大でも知られていなかった」ものだそうだ。
「大正4年のサンフランシスコ万国博のために編纂された英文の「東北帝国大学農科大学略史」の中に始めてあらわれた。筆者はおそらく当時予科の英語教師をしていたジョ−ジ・ロ−ランド師で、これはクラ−クの言葉を解釈したものである」(北大付属図書館報”楡蔭”29,244-255,1992.に秋月俊幸氏によって加筆されたコピ−による)その小さい印刷物「英文小冊子」であった。
表紙に「BBA」入の紋章のほかに「A Historical Sketch of The College of Agriculture Tohoku Imperial University What America has done for a Japanese Govermental College Sapporo Japan」とあった。 「・・”Boys, be ambitious!" Be ambitious not for money or for selfish aggrandisement,not for that evanescent thing which men callfame. Be ambitious for knowledge, for right-eousness, and for the uplift of your people. Be ambitious for attainment of all that a man ought to be. This was the message of William Smith Clark.....」
東北帝国大学というのは「印象的」であった。
そしてこの他にみせて戴いた資料から、今迄「気にかかっていたこと」は大体けりがついた。
何が気にかかっていたかというと、内村鑑三伝(鈴木俊郎著,岩波書店,1986,p90.)を読んでいた時その中の、明治9年8月14日札幌農学校の開校式における黒田清隆開拓長官式辞の次のクラ−ク教頭の演説の抄録をみて「おや?」と思ったことがあったからだ。何にアンビシャスであるかの言葉に、それまでいだいていた感じと違うような気がしたからだ。
「クラ−クは開拓使当局にたのまれて、即席の式辞を英文に書き改ためた時に、このロ−フティと云う文字を書き加え」(秋月)とある「高処に昇る大望」あるいは「栄光ノ最上地位ニ適センコト」へのアンビシャスであったのか。その時の資料は「北大百年史:札幌農学校史料:明治9年」に全文(訳文)があった。
またTBSのテレビ(世界ふしぎ発見)でちらっと見聞きした(”ガンバレヨ”というほどの普通の挨拶だったのではないか)も気にかかってことだった。また誰が「大志」といったのか、「野望」ではなかったのか、等々。
こんど「クラ−クさん」のことでわかったことは、次の資料を読んでのことである。
北大百年史(前出)、楡蔭(前出)、英文学上からの研究ノ−ト:長谷川誠一:”Boys, be am-bitious”考,英学史研究,24,101-105,1991.,ご自分の疑問から資料を檢討され平成6年自費出版された北大・工・土・16期植村厚一氏の冊子、 そしてあらためて見た 朝日新聞(昭和39.3.16)の(稲富栄次郎著の明治初期教育思想の研究からの引用の)天声人語の記事。
これらをつきあわせてみると、明治から今日までの「あゆみ」をみる思いがする。
記録の上ではじめて「Boys, be ambitious」の言葉があらわれたのはクラ−クさんが帰国して15年以上もたった明治27年で、そしてその内容は「Boys, be ambitious like this old man」であり、その後今日まで100年以上わが国でいろいろ言われ、書かれてきた。
「すばらしい誤訳誤伝」「誤伝の功績」と植村氏は書いている。
それはそれを書き言った人の「メッセ−ジ」であったのであろう。
しかしその文章や話が人々に感銘を与えてきたことはよく知られ、多くの実例が示されている。
私が衛生の旅に書いた小文(前出)は、朝日新聞の天声人語のことが頭にあって筆をはしらせたものだと、今思う。
”Boys, be ambitious”はクラ−クさんが”わかれの言葉”としていったのであろうけれど、北大資料にあったように聖書が使用許可された農学校での教育が、朝日新聞天声人語にあった(自由主義的なピュ−リタニズムの教育精神)によったものであったのであろう。そしてそれをまとめて”This was the message of ”と書いたロ−ランド師のメツセ−ジであったのであろう。それに多くの日本人が影響を受けたのであろう。 まさに「日本百年」である。 (8-6-1)