不二会弘前旅行めい言集

 

 野口君から電話を受けた家内が「ひきうけますわ」と返事をしたとか。

「あなたがやらないなら私がやるわ」といった手前、文句もいわず「ホステス役」をよくやってくれました。

 「リップサ−ビス」これつとめ、鰺ケ沢(あじがさわ)で生まれ五所川原高女を出たあと、こんな「文化はつる国」に住めるかと、「何にもない・・よしいくぞ−・・」とばかり上京したのに、入試もほぼおわっていて入った先は「千代田女専」(今武蔵野女子大)(今になってもう少し仏教を勉強しておけばよかったわ)なのに「東京へいって主人を一本釣りしてきました」とは。

 

第1日目(1997-5-16)

「チラットみせるのは」

「挨拶はあとにして まずは青森で現在最大の話題(三内丸山遺跡)へご案内」「5500年前、500人位の縄文人、それもかなりの文化人が、 1500年も住んでいました。世界の文化史に新しい話題を提供している「サンナイ丸山」は「ちらっとおみせして・・・」

「昔からちらっとだけみせるのはよくやったものだ」(これから次々と合いの手をいれる梶原君。梶原先生・梶原先生とガイドさんに一番先に名前を覚えられる)

 

「弘前へようこそ」

 まずは「このときまだ生きていましたの証拠写真を 写真屋の工藤君に」

 

ホテル・ニュ−キャスル9階 貸し切りのレストラン・ベルビュ−で。岩木山・八甲田連峰の山々はかすんでまだ見えず。

 野口幹事開会の言葉。楢崎君への叙勲のお祝い。

 「弘前へようこそ 昨日昔のアルバムをみていたら 亡くなった人たちの顔はいつまでも 若くていいなと思いました」

 津軽藩から選ばれて慶應義塾へ学んだ菊池九郎(後に初代弘前市市長、東奥日報を創刊)吉川泰次郎、そしてジョン・イング神父をよんで「東奥義塾」を開校。

 「りんご懐石にステ−キがでるとは これいかに」

 

弘前市内観光へ

 青森医専が弘前へ移転するにいたったいきさつには、いずれも慶應義塾の岩淵勉弘前市長・弘前市医師会長小野定男先生(10回生)それに草間良男先生がかかわっていました。

 「いのち」の時代、「弘前市立病院」総ひのき造りの「朝陽小学校」が「弘前医科大学」の校舎になりました。そして弘前大学医学部に。 今は 建築進行中ですが 前から 横から 後ろから と。

 津軽じゅうの寺を全部集めた禅林街へ

 「解剖慰霊祭もやる長勝寺」「ミイラでて 学位論文 いくつかと」「境内に大学の解剖慰霊碑もあり」「私もいれてくれるかな」 

 杉田玄白と一緒に「解剖書」を翻訳したのに初日に当直で出られなかったといわれている津軽藩医の桐山正哲家の墓は「隣松寺」に。「ロシヤから種痘がこのへんに入ったとか、南蛮ポルトガルから直接ケシがここ津軽に入って 京都では(つがる)とは良く利く薬といわれていたという研究(松木明知)もあります」

「昔東奥義塾があった場所 今は観光スポット」

 「山車」「じょっぱり太鼓」「この頃は かたはだ脱ぎの女の子が太鼓をたたくのですよ」「どんこ どんこ の音が東京の孫達には印象的であったらしく しばらく 弘前のおじいちゃん・おばあちゃんはどんこじいちゃん・どんこばあちゃんと呼ばれていました」

 文学館では石坂洋次郎(市内代官町の生まれ)の昔なつかしい「若い人」

「早速 デイベ−ト始まる ご両人(梶原・浅葉)」

 

弘前公園で

 「あの岩木山の頂上に雲がかかっているのをみて、昔全国の医学生を案内したとき 卒業後またきて あの上がどうなっているか みて下さいといったことを思い出しました」「佐々木君は なかなかロマンチストだな」と梶原君。

 「松浦君が医師会副会長だったとき、ブロニカに三脚をつけてここで写真をとったことがありました」

「あの作品は今・・」「彼の夕陽の写真もあったな」

(ご案内出来なかったのは このごろとんと足の遠のいた夜の鍛冶町の店店。ラグノオささきの「世界一小さいりんごの博物館」(私とは関係はありませんが、昔私より税金が少ないのに−−小さい町では薄給の大学教授が高級取り−−その娘さんをフランスにやって−−今もてもての美大教授佐野ぬいさんの絵−−今パリのル−ブル近くのラグノオのオ−ナ−です)

 

黒石の先から新しくできた八甲田への道を

 「昔この辺の開拓部落へ大学から診療に出かけてきたことがありました」

 「城ケ倉大橋」をすぎて ロッジ風八甲田ホテルへ。

 「混浴希望の方は近くの(酸ヶ湯の温泉)へどうぞ」「下の大風呂もありますが」「入湯税がついていないから温泉ではないですよ」と服部君。「廊下は部屋着で結構ですが、食堂へは・・」「カチャカチャと・・部屋の鍵はどうして開けるの」「要領があるんだな」「はじめて泊まったけど なかなか落ち着いて良い部屋ね。オ−クラよりいいわね」

 昼の「りんご懐石のステ−キ」がまだおなかにあるうちに「フランス料理のステ−キ」とは。「フランス語のメニュ−読めませんわ」「日本語でも書いてありますよ」「かえるは食べましたか」健啖家は誰。

「(女一人部屋に・・さびしすぎるあなた・・)私 あちらにご一緒に寝ようかしら」「(これからの人のために)がんばって出てきたのです」「男どうしもいいもんだ 話ができて」「うんそうか やっとわかったそうだったのか」と山形君。「下の風呂 最高だったわ 月がでて」ここは幹事の意向を尊重してご夫妻様一部屋。「新婚旅行の夜はふけて」

 

第2日目

 「セントバ−ナ−ド犬(ふじこ)に不二会は見送られ」

 青森とどまつの林をすぎて、残雪の睡蓮沼の「みずばしょう」。霧の中のドライブ。岡本太郎最後の作品巨大暖炉「河神」をみるために「奥入瀬渓流第二グランドホテル」へ寄りました。

 

 「コ−ヒ−位のんでいって下さいよと云われました」「私から頼んでもよかったんだが、服部君の実力がどの位か・・・」「昔から先生といわれる方は人が悪い」「佐々木先生のお名前がここまでおよんでいるとは・・・」「いや−ここのオ−ナ−とちょっと知り合いなので。支配人を通してお礼の電話をいれてもらいました。別のところに泊まったので」

 「住めば日(ひ)の本(もと) 遊ばば十和田 歩きや奥入瀬三里半」(大町桂月)

 右に左に滝をみて、遊歩道があるのですが車窓から。「いつもテレビにでる奥入瀬の流れの場所はここ」

(戦前蔦温泉へとまってリュックを背に十和田湖畔まで歩いたことがありました)

 十和田湖遊覧:「皆さんの席は もう一つ上の3階の特別室です」

 アベック専用の特別室。二人づつ座ってどんな会話がかわされたことか。景色をほとんど見ないで浅葉君と50年のブランクをうずめ1時間。

ここは秋田県か青森県か ひるの食事は「きりたんぽ」。

 元気のある方は「乙女の像」へどうぞ。なんと小雨があがり、陽が出てきて。

「この道を草間先生ご夫妻、原島先生ご夫妻も歩かれました」

「乙女はしっかりと大地に足を・・」とガイドさん。「こう二人手をあわせると かかとが上がるんだが と(科学者の目)に書きました」「記念写真をとられましたか」「二人手を合わせると・・・」(美女二人のスナップショットは今回最高の出来でした)

 残留組は近くの「ゆずりは」(民芸の店)へ。

 

 十和田湖展望の穴場の展望台。東北高速へのって大鰐へ。昔関所があった「碇ヶ関」をすぎて、南津軽大鰐の錦水着。

 従業員一同ずらりとならんでお出迎え。5階の部屋へ。「おみやげの袋とどいたかしら」「原則はおみやげはないことにしましょう(幹事)」「私たちもお世話したときいろいろと苦労したんですよ」「気は心ですから」「箸はともかくとして、本はもう本屋に売っていないし 奥様方に読んでほしいから」「(主人を長持ちさせる法)と逆のは書きましたがね」「(太るな 歩け 歩け ただ歩け)とアドバイスしたい人も中にはいるからね」 

 

 午後7時、離れの茶屋で「すこしさむいです」「今エヤ−コンを調節するようにいいました」「皆がくれば暖かくなりますよ」 津軽三味線(キャリヤ20年若手の花田さん)の芸を聞いたあといい気分で宴会場についたとたん、隣はすでにできあがった声声。大阪からの土建関係に団体の声つつぬけ。

「さすが津軽の さすがいなかの 支配人の挨拶」にあたまにきた人あり。 

 「今後のこと 亡くなった方のこと いろいろご提案がありましたが・・・明朝までに・・」ということで乾杯。

 

 「山菜の種類を説明して下さい」「いつも常連の張り切って唱う方が今回欠席されたので、宴会幹事といたしましてはどうなるかと心配しておりましたが」と、かわきりに「40年以上前、生まれたばかりの長男と三人で(上野発夜行列車降りた時から)弘前駅に降り立ちました・・それから・・「雪国」で(追いかけて追いかけて)(追跡的疫学調査)をやりました」

「不二会婦人合唱団の合唱」せっかくお嬢さん方が用意した「日本の歌」が役にたちました。

 いつものきまった歌でと楢崎君。「奥さんにまけないようにがんばれ」の声あり。

 「大きなねぶたは一番最後」と指名された梶原君ドイツ語の歌を。それに刺激され「ぼけの予防・チェックに50年以上前習った菩提樹(Der Lindenbaum)の一曲(本邦初口演)」「どうにかこなしました」

「あのときの歌を唱う約束になっているのに出てこないな。あの鯨の歌を」と岩井君。

「あの赤倉山荘で スキ−にいったときだったかな 藤原義江のかな、鉾をおさめてかな、出船の港かな・・・・」「だいぶ声が年とったな」そばから感想の一言。

 黙々とビデオをまわす岩井君。「毎回のことでだいぶ腕があがったのではないか」「今度は彼の唱う姿も入っているビデオ。次のクラス会で見られるかな」

 部屋に「ほやの一皿」を注文された方、おいしかったですか。

 部屋の番号を忘れ、ごめいわくかけた人あり(もの忘れがひどいんだから)。

 梶原君恒例の「お茶の会」ではどんな話題がでたのやら。

 

三日目の朝

 「まだ戴いたご本(津軽書房:解説現代健康句)ちょっとのぞいてみただけですけど 山際勝三郎先生は上田の生まれで ・・・」「ええ 折井君から資料をもらって書いたのです」「記念碑があって お友達が来られると いつもその前で写真をとっていました」「折井君と奥様とどちらが写真のプロですか」

 お見送りには半分もいないとは、錦水流のサ−ビスか。

「支配人は藤田観光からの出向 あとは地元採用とか。その他、つがる三味線のギャラなど聞き出せず」

「しかし何十億の赤字をすこしでもへらすことに役だって戴いたこと(大鰐町長に成り代わって一言お礼を)」「リフトが止まると困るんだから」

 「この錦水の離れの部屋 いくらと思われますか? ズバリ賞の方はご招待します」と服部君。「20万」の声あり。「はずれ!8万」「もっとも30万になるときもあり」「一人分かな二人分かな」「平均すればあたっていたのに」「泊まったのははじめてです。ウイ−クデイのスキ−からの帰りはいつもここは素通り。ちょっと上の、眺めもよく、お湯もよく、なんと150円の町営温泉で一風呂あびて」

 20年前の「赤い上着」が一つ役にたちました。

 「あ! 上着を 部屋に 置き忘れて きました」(某君の奥様:今朝はおめしものが違う:と思ったとたん ご自分の上着のことが思い出されて)

 「20年前 20年前 なんていうと ちっとも 奥様に買ってあげないように聞こえますがね」とガイドさん。「教授の安月給では・・・ほかの皆さんのようにはいかなくて」「といっても さっきから ゴルフだの スキ−だのといっていて・・」

 

 「アップルロ−ドの このスポットは 1時間も2時間も話のできるエピソ−ドのある場所です」「日本新聞を創刊した陸羯南(くがかつなん)の(名山出名士)の碑もこの上にあります」「東北地方公衆衛生のメッカだった(いのち)のモデルになったといわれる保健館」「昭和29年に子供から老人までの約700名の狼森(おいのもり)(部落)民の血圧を始めて測ったところ。尿中Na.Kを炎光分析で始めて測って 塩のとりすぎは悪いが りんごは高血圧・脳卒中の予防になるのではないかとの発見のあった歴史的な場所」(健康句の表紙の写真は私の研究を引用したアメリカのりんご協会のパンフからです)

「佐々木先生 佐々木先生・・・」とガイドさん。「ノ−トに書き留めて勉強しておきます」「あなた ずいぶん売り込みましたね」とはそばから一言。「でも事実だからね」

「先生のガイド料は とても高くて 払い込めません」と服部君。

「今に (佐々木ロ−ド) ができるかも」と塩路君。「昔(金の胸像)が立ちますよと云われたことがありました 趣味じゃないけど」

 

 りんごの花咲く道をちょっと離れて弘前市内へUタ−ン。昭和58年近代洋風建築シリ−ズの記念切手にもなった青森銀行前へパ−キング。「おみやげ作戦戦闘開始」田中屋さんへ

(前もって打ち合わせにきた服部君と伊藤さんに 一言こんな店もありますよといいいました。そのあと下見にいったらしく このお店を入れましょうということになって)普段は医院開業の姉と買い物をし、おみやげの箸(都会の人に喜ばれるとか オリジナルのを求めましたが)「先輩いや後輩」の女主人から。

 はからずも「買い物行動の観察の場」になりました。

 「アメリカにはこのデザインがいいわね」とはいわずと知れた方。「ベルギ−の高血圧研究に友人が日本通で しらべてきて、この店で円を使いはたし、あとキャッスルのホテル代を払うはめになったことがありました」

 ご自分の為に津軽塗りのネクタイピンとカフスボタンを買われた先生がおられたとか。

「いつまでも 若い気持で いいわね」「ご子息に気に入ってもらえたかしら」

「何かサ−ビスしたいのですが、何がいいかしら」ちょうど創業百年記念をやったばかりでつくったオリジナルの「津軽の四季」の絵はがきをくれました。「こんなことははじめて」と服部君。

 

 「私は車に残っていますが、皆さんには上まで歩いて岩木神社へ参詣していただきます」と服部君。「彼が来ないわけ。お払い代までいれていなかったのかしら」「一番上まであがってちょうど座って休むのによかったのに」(のりと)がはじまったので早々と退散。

 「余力をたくわえていた」某君。「上までどの位ありますか」「今みえているところの2倍くらいです」「いきはよいよい かえりは足もとふらふら」ホステスに抱えられて。「佐々木君はお墓は?」「私のは鎌倉だけれど きてくれるかどうかな」「私青山墓地につくってあげる(!)ことを考えているのです」「私はエ−ゲ海のコス島へ」「私は鰺ケ沢の海と大鰐のスキ−場ね」「灰をまくのができるのかしら」

 ここでもスケッチする島崎君。うらやましいな。

 「どうも前に来たような気がするのだけれど」と山形君。「そうです1990.9.4.エイズの仕事で弘前へ来たときここにも自宅にも来られました。六さんの撮った写真もアルバムにありましたよ」

 「世界一の桜並木」に将来なる予定の道をドライブし、津軽CCを横目に見る。「フラットですね」と塩路君。「いや−−かなりロングで登りもあって、このごろはカ−トです」「塩路君も(クラチャン)になったことがあるそうで−ホ−ルインワンもやったとか−−」「私の場合は シニヤ・グランドシニヤ・レデイ−スのでアンダ−ハンデイ(29)のコンペで、あがってきたら11アンダ−になって、大きなカップがクラブに飾られています」

 「奥さんもゴルフをやられるのですか」「はじめすこし練習しましたが、コ−スに行くと(家計)が持たないと思ってやめました」「そうだろう」とは前はゴルフをやっていたのに、今は孫の写真を胸にの山形君。

 昔兵隊で弘前へ入隊したことがある成田君。「嶽の温泉には入れてくれませんでしたよ」

 嶽温泉山のホテルでの「またぎ飯」。「まだ(熊の足)が出てこないが」とメイドに聞く中嶋君。出てきたのは「しし! すし!」ああむずかしい津軽弁。

 「梶原先生 今度表彰されると 小耳にはさんだのですけど 一言どうぞ」「この25日に・・・」 一言が いろいろと長くなり。「ツッパリの子供にボ−トをこがせたら良くなって」の表彰とか。「あなた個人だけの功績ではないでしょう・・」とそばから一言。

 「お持ちかえり 山菜・タケノコ 料理できましたか」

 

 「高木先生は 弘前市医師会員で眼科の先生でした」「お医者さんはいろいろやられるのですね」「そう、このなかにもおもちゃの先生(井田君)もいますよ」(せっかく手作りの凧をもってこられたのに)「つがる弁の詩が有名になって、東京で公演されたこともありました」「(冬の月)の(まんどろだお月様だ)の英訳が(round moon)とちょっと違うんだがな と云っておられました」「高木恭造方言詩集から一曲:ねぷたのうた」「ちょっとなまって」「いやこの土地の言葉で」「共通語で解説してもう一度唱って下さい」久しぶりに聞いて涙がでた。

 

 そろそろお別れが近ずきました。

 「あなた確率を信じますか」と一年で一番快晴、五月(さつき)ばれの確率の高い日を選びましたが、どうにかうまくいって。つがる弁とバイリンガルのガイドさんにめぐまれて、ベテランの安全運転手さんにめぐまれて。服部大三社長から教えられ・鍛えられ・いびられたかも・まだお嫁にいかずの(伊藤さゆり・藤田舞香)のお嬢さんがたに助けられ・差し入れのお菓子をいただいて・・体の事故もなく・・ありがとうございました」

 あと残った仕事は「記念の写真」の宛名書きをして、皆さんに送って・・「E-mailの宛名があるなら、この通信も写真も送れるのにな、何年先かな」

(参考までに:音楽をやっている修オサムがインタ−ネットのホ−ムペ−ジをひらいています。(WWW.cityfujisawa.kanagawa.jp/~maestro)をクリック・クリックしてくだされば、音楽の話・お先祖様の話・そして私のプロフィ−ルもでてきます)

 

 空港に3日間置きっぱなしの車にのって、はじめて皆さんより早くわが家へ。

(駐車料はただ。青森ではサンナイでも入場料などほとんどお金をとらなくて。だからGNPも最低か。皆そんな顔はしていないで生きているようですが。空気や水はおいしくて、山菜やりんごやホタテはすぐ手に入るし、何が豊かな生活かな。皆さんのご感想は)

 

 「皆さん日本!へ着いたら」(さすがインタ−ナショナルだ)

 もう一日東京へ泊まっていかれる方もいたとか。

 

追伸:

「(吉兆)なら5萬もとられるよ」

 前日(15日)のこと 「13:55青森着予定の伊丹からのJAS755便 濃霧の為 天候調査中 14:15分になって三沢へ・・」というアナウンスあり。「塩路君がのっているはずだ。彼のことだから三沢から直接宿泊予定地の浅虫(割烹温泉旅館さつき)へたどりついてくれるだろう」がすぐインタ−ナショナルフライトの事務所へ「これこれで・・私達は浅虫へ向かいます」と電話を入れる。次の便で東京からくる服部君は無事に青森に着けるかしら、欠航にならなければよいがな。やはり同じく三沢へおろされました。話題いろいろ。しかし「なんとタイミングのよいことか」結果はすべてうまくいって。

 美人のおかみさん(武蔵野女子大の後輩とか)のサ−ビスをうけ楽しい夕食をいただくことができました。「時間の都合でこられなかった島崎君には内緒にしておこう」「浅虫でよく連絡がとれたものだ」と山形君の感想。「一生の思い出になりました」と塩路君。

 メモ代わりにワ−プロに入れておきました。(4校検閲済み)(9-5-20) 

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