子供はいつから大人になるのか
1993年8月9日細川連立内閣が誕生した翌日10日に首相就任後の記者会見をテレビで見ていたら、「どうゆう戦争であったかの認識」を問われたときの細川護煕(もりひろ)首相の答えに「おやっと!」と思ったことが記憶にある。
それが今日のテ−マである。
この時の首相の答えは、「有名な」また「問題な」発言としてその後何度となく新聞紙上などに登場したから覚えておられる方が多いと思われるが、その時の答えは「私自身は侵略戦争であった、またまちがった戦争であったという認識をもっている」ということであった。
私が「おや!」と思ったのは、昭和16年12月8日に始まった戦争のことで、あの日の朝ラジオの臨時ニュ−スの声がけたたましく「戦争状態にいれり」で始まった「戦争」のことである。その時細川首相は「何歳」であったのかなと思ったことであり、そのときすでに彼は発言のような認識をもっていたのかということであり、自分はどうであったのかなと思ったことであった。
昭和15年は「紀元は2600年」といわれていて、私は医学部1年生であった。それで書き始めたのではないかと思うのだが日記をのノ−トみてみたら、「2601.12.8.対英米宣戦」とだけ書いてあった。
翌年「2602.1.1」には「紀元二千六百二年の元旦は明けた。去る八日の宣戦の大詔を奉ってから今日まで目まぐるしいばかりの戦果である。ハワイ空襲、シンガボ−ルへマレ−へ進撃、ボルネオ上陸、香港落城、Prince of Wales撃沈、グワム・ウエ−キ島占領、小泉塾長の云われたすみきった気持(?)の内に僕等の眼前に日本の姿は次第に大きくなり、そして新秩序への段階が着々に進みつつある。新秩序とはなにか。やむにやまれぬ日本の心。東亜から英米をしめだし亜細亜人の亜細亜をつくることであろう」と書いている。
日記にはその当時の学業のことも書いているが、「兄(陸軍召集後)中支へ出発」の出来事が我が家にもあった。
「卒業したらということが近頃頭の一部をしめるようになった。実際自分はどほ云う人間であるのか。どの様な特質・特長・素質があるのか分からない。学校に居る間は、学期が始まれば講義を聞きに登校し、学期末にもなれば試験におわれて、その間に弓をひき(体育会弓術部にはいっていた)本を読み、映画を見て又休みが来る。或いは東京をはなれて関西に行き(親戚がいた)、また満州へ(学生義勇軍としての勤労奉仕をした)今迄は行きたいと思った事やりたいと思った事はやってきた。然し何の為になどという事は考えずにただそほする事が最上の事と思いまたそれが一歩前進することだと考えて居た。今それは一つの例ではあるが内原(学生義勇軍)から満州への旅をふりかへって見よう。それは「理想への孤独」とも云うか、いわばそれはあこがれへの逃避などといえるような気がする。それ自身はたしかに正しい理想だ良い事ではある。だが然し今自分の身のまはりを見、周囲の人達の事を考へ人の世の事を思って見ると自分一人良い所へにげ出して孤独な生活というか身を捧げ切るという事がはたして人の生活であろうか我々人の世に住む人のとる事のできる道であろうか。ではその人の世に生活して行くにはどほすればよいか。それは結局自分自身を知る事であろう。自分が何であるのかと。そして自信をもつ事だ。そして自信をもって身を活かして行く事に違いない」と。 わけのわからない事を日記に書いたものだと今思う。
それでいて「通りすがりのメチに忘れられぬひとみがあって時々思い出して」などとも書いている。
こんなことを書いた年,学部2年の夏休み、北海道開拓訓練に参加し「北海道に運河」を掘っている。そしてその年の年末の12月8日になったという時代であった。
小学校時代に満州事変がおこり、中学生のとき「226事件」、そして昭和18年9月に卒業、海軍軍医になった。
人の認識は自分が創り上げたものは別として、基本的には「井の中の蛙」であろう。 医学部1年2年は私の場合は「20歳」であった。前に「衛生の旅」に書いたように、当時の「情報」は限られたものだけだったし、戦後も「日本占領時代に実施された言論統制下」にあった。そして今になってもまだ分からないことが多い世の中である。
細川首相は昭和13年1月14日生まれとあった。となると「3歳」となり、発言の認識はいつどんな形で造られたのあろうか。育った環境がそうであったのであろうか。
神戸での事件の容疑者の年齢が「14歳」と伝えられている。
「少年法」の解説によれば「20歳未満を少年といい、心身に未発達の少年は罪をおかした場合は、成人と異なり性格の矯正などに重点をおくべきで・・刑事処分は16歳以上・・」とある。
罪をおかすという罪は大人がきめた罪ではないか。
その少年が小学校卒業文集に阪神大震災について「村山(首相)さんがスイスの人たちが来てもすぐには活動しなかったのではらがたちます。家族が全員死んで避難所に村山さんがおみまいに来たら、たとえ死刑になることが分かっていても、何をしたか、分からない」と書いている。
よその国の首相がきて、その人を殺しても、独立の勇士としてたたえられれている。
「ポア」という言葉・その結果行われる「殺人」という行為の裁判公判の報道が新聞・テレビでなされている。
何十万という人が「ハイル・ヒットラ−」と手を一斉に上げていた時代があった。大の大人がである。
先日亡くなった増田四郎さんの著書「歴史する心」(創文社)を図書館で見たら、「時代における歴史する心」には「その歴史家が生きていた時代の思潮や諸情勢の反映でないものはないかという気がする」と書いていた。そして「歴史学を学ぶ人へ」には「史料の語るところを忠実にうけいれ、歴史的事象の意味を客観的に聞きいれなければならないのです」とあった。
東洋の香港などの姿をみて、「独立」が「目的」と考えた福沢諭吉の創設した慶應義塾の幼稚舎で、自分で判断し行動しそれに責任をもつようなおとなになるように、「独立自尊」を教えられて今日まできたのであるが、いつから大人になって自分の考えをもつようになったのかよく分からない。
人間は生まれてすぐ一本立ちできないようにできあがっているが、子供はいつから大人になるのであろうか。子供の心に入るものは何であろうか。そしていつ大人になって自分で判断できるようになるのであろうか。
昔中国では小少から丁年になって大人になった。成人式はその年齢をとっている。一応の線を引くとしても、人間には幅がある。子供はいつから大人になるのであろうか。 (9-7-5)
(弘前市医師会報,254,55-56,平成9.8.15.)