ストリップ第3話
「ストリップ」と題がつくと人の目にとまってよく読まれるようである。第3話というからには、第1話・第2話があり、今度がその第3話である。
第1話(衛生の旅Part 1, p96)は「ストリップ」とは何も「はだか」になるという意味ではなく、鋼鉄の塊をうすいブリキのような鉄板までうちのばす作業を一貫してやる「ストリップ工場」の話。第2話(衛生の旅Part 2, p72)は「濾紙法」という濾紙(ストリップ)を用いて尿中ナトリウムなどを測定できる方法を国際学会に発表したときの話であった。
今度のストリップ第3話は産経新聞(10.3.27.)の「みちのく名作紀行」にあった「石坂文学」培った教師生活として横手で過ごした石坂洋次郎の作品「ストリップ・ショウ」の紹介記事を読んでのことである。
弘前市出身で慶応義塾文学部で学んだ石坂洋次郎が秋田県立横手女学校で目にしたものは「清潔で美しいストリップ・ショウのようなもの」だった。石坂はその光景に「すがすがしさ」さえ覚え、短編「ストリップ・ショウ」(群像昭和26年1月号)でユ−モアたっぷりに紹介していると。
残念ながらその「群像」が「弘前市文学館」にも「弘大図書館」にもなかったので、まだ読んでいないのだが、内容は次のように紹介されていた。
「真冬のころ、自習監督番として生徒のソリ遊びに付き合うことになる。監督番の役目ははたさなければならないが、自分はソリ滑りに興じることはできない。だが、意外な光景が・・・」
「私はほんとうに魂消(たまげ)てしまった。(略)彼女等の大半は、靴下のほかは、下肢部に一物もまとっておらないのであった。時代がちょうど、和服に袴(はかま)の制服から、セ−ラ−服にきり代えられた頃だったので、ズロ−スなど一般にはいき渡っておらなかったからであろう」
「石坂の驚きとは対照的に、女学生は陽気に騒ぎ立てる。石坂が眺めているのも気にせず、ソリ遊びに熱中する。そんな明るさにつられて、石坂は職員室に充満していた旧弊から解放された気になるのだった」と。
そんな時代に石坂洋次郎は「若い人」を書き、「江波恵子」の名前と共に私の「予科時代」に影響を与えたことが思い出される。
記事には最初の教え子だった方の談話として「昭和2年に入学した生徒から一斉にセ−ラ−服に変わりました。学校の裏山でソリ滑りをしたこともあったけれど、みなスカ−トの下にズロ−スをはいていましたよ。小説は誇張しておもしろおかしく書いたのでしょう」とあった。
記事は「この小説が実際の出来事かどうかはさておき・・・女学生の健康的な青春の一ペ−ジは横手の雄大な自然と重なり、読後のそうかい感がなんともいえない」(秋田支局宇田川尊志)と結ばれていた。
私にも同じ風景の思い出がある。
血圧測定を地域で始めた昭和30年のはじめの頃のことであった。
血圧をどのような体位で測定することがよいかどうかが問題になっていた頃であった。
座って「座位」のままでよいのか、机を用いての「机座位」でよいのか、「横臥位」がよいのかなど。
そして「横臥位」でそれも十分休息をとってからでないといけない。「本当の血圧はわからない」と考えられていた。
だが「ベット」など病院ならとにかく、一般にはなかった頃である。
だから「リンゴ箱」をならべて、その上に布団をひいて、と即席ベットを用意して血圧測定をやった。
私はもう血圧測定の係りではなくなっていて、学生諸君が手伝ってくれ、私は色々と説明する係りになっていた。
その風景を想像していただければすぐわかることなのだが、横に寝た人の「すそ」の方に私が座った時だった・・・・。
小さいとき東京の白木屋で火事があった。
「屋上からどび降りるにも降りられないで」その時以来「ズロ−ス」を皆はくようになったとは、その時代の話題であった。
もう少し前にさかのぼって母から聞かされた話があった。それは「祖父」が「芸者」をあげて「お大尽」をやっていたときの話。だから「そんな贅沢なことはしていけませんよ」との教訓の話題であったのだが、私には別のことが記憶に残った。
「芸者にさかだちをさせて」「足ですそがまくれないようにうまくやった芸者に銀貨をふるまった」ということであった。
まさに「おおらか」な時代であった。(10.4.4.)