後日談

 

 平成7年11月3日弘前大学医学部スキ−部部員一同から電報を戴いた。「秋の嵐」のはじまりであった。

 「栄えある勳三等旭日中綬章、誠におめでとうございます。

  お喜びもさぞやと拝察いたします。ますますご健康でご活躍  されますよう、 祈念いたします」

 「お祝い」「デラックスおし花」の祝電であった。

  「嵐」の前ぶれはあった。

 10月24日に閣議・御裁可を経て正式決定されるので、一番はじめは「代議士諸先生」からの祝電で、あいついで来た。

 こんなに「祝電」の種類があるとは知らなかった。

 テレビ(笑っていいとも)で「ご出演おめでとうございます」の電報と同じように。「うるし塗」また「メロデイ−の音」のでるものもあった。30分おきに電報をとどけてくれる人が気の毒な位であった。

 お花もとどいた。東京の東野先生からも大きな花がとどいた。 八戸で開業している山田匡君から便りがあった。

 「相変らず”政高学低”には不満なことですが、どうせ研究の中味などよく解らない人々のすることだからと自からを納得させておりますが」と書いてよこした。「それ頂きます」と返事した。

 「めでたさも 中ぐらいなり 文化の日」

 「文化の日 政高学低の 風が吹き」

 もっとも生存者叙勳には「内示」があって、おまけに「受けるか受けないか」の判断をせまられる。

  「勳記」とか「勳章」も戴いてきた。

 「叙勳産業」とでもいうものがあるのも今回の経験であった。 これらを全部書留めておくとよいのではないかとの思いもあるがひまがない。・・・・(8.6.1)(SPUR35より)

 

高桑栄松先生へ

  叙勲への祝電ありがとうございました

  おくればせながら貴兄の叙勲おめでとうございます

  テレビで皇居での記念撮影の様子ちょっと拝見しました

 

  辻達彦先生からのお祝いのはがきに 「正一位 ほどではないと リンゴ 喰み」とありました

 詠み人しらず 「文化の日 政高学低 の風が吹き」

 

 先生の肩書が「北大名誉教授」だったら 同学の者として 衛生学が世に認められたかと鼻が高かったものの とちょっと残念でした

 もっとも昔小生が衛生学の教授になったとき 弘前に来られた林髞(木木高太郎)先生から即座に 「それじゃ 総理大臣 にならなければならいな」と言われたことを思いだします

 先生が先に書かれた「ステ−ツマン」になられることを祈っております

 

 先日森鴎外のことを書きましたが 同じ「傍観機関」の中に「学問権」のことがありました いくら日本の官僚が優秀でも 「アルバイト」(業)によってたつ学問は評価できないものだと思います とくに国際的なレベルにおいて

 また「衛生学」「疫学」の成果の重要性が認められるまでには 国際的にみても また日本でも それなりに時間のかかるものだとの思いがあります 

 教育は二の次で 研究第一 それもグロ−バルな人々を考え また地域社会の人々の保健を考えてきたものとしては 先の保健文化賞のほうがありがたく思いました

 文部省からの手続きとし 国立大学に長く勤務しただけのことでの今回の叙勲は 大変心苦しいものでしたが 国家公務員・教育公務員として勤務したものとして お受けすることにしました

  来週文部大臣からの伝達式 つづいての皇居においての拝謁へ上京することにしています                      今後とも お元気で よろしく  (7-11-9)

 

上京し、身内でお祝いをしました

 

 ホテルには家内も一緒に泊まったのですが 私一人伝達式に参列し、勲記と勲章をいただき、そのあと参内し、天皇からお言葉を頂戴し、記念撮影をして、(この間数時間排尿をこらえられる方でないといけない)(ついてきた奥さんの車椅子をおしている方がいることも印象的であった)ホテルへもどった。 

 勲記の番号は「3355651号」であった。「日本国天皇は 佐々木直亮に・・・」という文面であった。直亮の亮はちゃんと戸籍にある字で記されおり(戸籍抄本をだしてある)JISにない字であった。なにか天皇家と親戚になった気分であった。

 

ちょっと家内に勲章をかけ一枚、私も記念に一枚写真をとった

 略章もついていたが、今日に至るまでつけるような機会はない

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