平成11年1月1日 君は亡くなったという。
朝年賀状の中に君からのを見て、無事に年を送ったと思ったばかりだったのに。
”六さん”と呼ばせてもらおう。頑張ったのに とうとういってしまったのか。
年末 娘さんの優子さんから 電話があった。
”以前父がお話した件ですけど”
もう何ヶ月も前だったろうか。 誠に君らしく 自分の葬式の段取りを考えていたらしく 弔辞をよんでくれないか とのことであった。
「近日中に退院の由、よかったですね。 何か手回しがよいようで、秒読みですか。 私とどちらが先かわからないのに。
(義理を欠くようで申しわけありませんが 弔辞は他の方へお願いするように)
貴兄が先だったら記録をどこかに書き残しておきます。今ホ−ムペ−ジを開いています。成人病のこととか、昭和18年のこととかいれました」とFAXですぐ返事したことがあった。
あれはもう何年も前のことだったか。
青淵(544号平成6)に君は「がんの告知」のことを書いたいた。
「いずれは私もがんの告知を受けるのだろうなと漠然と考えていた。昨秋風邪のあと、タンの切れが悪くなり、薬が効かない。たまたま、数年間さぼっていた人間ドック入りをした際、ついでにノドを診てもらったところ、ノドに腫瘍らしきものありということで精密検査のための入院。諸検査の結果、「喉頭部扁平上皮癌」が発見された。その上、胃にもあやしい処があるとかで、検査を重ね、こちらの方が先とばかり直ちに胃の手術−胃の三分の一切除、引き続きノドの方は、放射線照射三十数回実施して腫瘍消失。四カ月間の入院後退院することができた。まさかノドのがんが先行し、何も症状のなかった胃まで種類の違ったがんが発生しているよは夢にも思わなかった。
母校の後輩が主治医で、私の場合は早期がんなので、「告知」は当然で、躊躇はないと考えていたのであろう。ごく普通に「がんですよ」と言われ、こちらも「ああそう」という気分で受けとった」と。
それからの後の君の活躍(それ以前の活躍は勿論のこと)は知る人ぞ知るであった。
ついこの前も海外まで足をのばし、少し疲れたが、よく人を使うものだといっていたが。 君のやった仕事はあまりにも沢山あり、それぞれ世話になった人は数限りないと思う。私に限って言わせてもらえば、私の今日あるのは君のおかげであり、日本からみれば「成人病対策の生みの親」とでも言わせてもらいた。この辺の事情については「成人病から生活習慣病へ」に書き、生前おみせできなかったが私の「衛生の旅 Part7」を君の霊前にささげたい。
一昨年になってしまったが、不二会の弘前旅行にも来てくれて楽しい時をもったことも嬉しかった。その折り「天下り役人の不祥事」が世を騒がしていたとき、「天下りといっても日本にはこんな清廉なまたこんな有能な人材もいるものだ」とのアメリカの新聞記者の取材をうけたときの記事を世話人が紹介してくれた。その時の「Decending from heaven」という記事が記憶に残っていたが、本当に君は天国にいってしまったのか。