カタカナ題名のつづきである。
「ゼッコン」という言葉から何を連想するだろう。多分何も出てこないだろう。私が創った言葉だから。
「絶筆」ならぬ「ゼッコン」という意味である。
今年の元旦に私の友人の山形操六君が80歳で亡くなった。
1月9日発行の本誌新春特集「炉辺閑話」に彼の「闘病記」が掲載されていた。そしてこの原稿が「遺稿」になったとも告知板に記載されていた。
2か月も前に原稿を送り新春に出るのを心待ちにしていたのではないかと「六さん」の気持ちを思うとたまらなかった。
お正月に年賀状がきていた。それも彼独特の自筆の宛名ではなくワ−プロではあったが。無事に年を送ったかと思っていたばかりの一日に電話を戴いたときには、心が痛かった。
そして今年の私の初仕事は約束を果たせなかった「弔詞」をインタ−ネットに出すことであった。
元気だった時の写真・弘前まで足をはこんでくれた同級会旅行の時の写真とともに。そして「日本の成人病対策の生みの親の一人」であり私の今日あるのは君のおかげであると書かせてもらった。
そのときコンピュウ−タに入れリタ−ンのキイ−を押せばこれが「絶筆」ならぬ「ゼッコン」になるのではないかと思ったのである。