こんなことがありました

 

 この22日の土曜日(平成11年5月)医学部コミュニテイ−センタ−で開かれた鵬桜会の総会に出席して、「衛生学教室のアルバムから」を一応今回で終了させて戴きたい、会報に長らく続けて掲載して戴いたことのお礼を述べた。

 会の途中ではあったがお先にちょっと失礼して文化ホ−ルで開かれた弘前オペラ会の「アリヤと重唱の夕べ」を聞きにいった。スキ−部の新勧コンパの案内も戴いていたが、音楽の方を選ばせてもらった。音楽好きの先生にも顔を会わしたが大半は若い女性であった。「それが目あてなんでしょう」といわれそうな気もするが、なかなか皆熱心で声の良い方もいて、弘前オペラもそれなりに頑張っているなとの印象であった。

 会が終わったあと普段ならすぐハイヤ−で家へ帰るのだが、中央弘前駅まで歩いていって丁度八時半発の電車に間に合う時間であったし、明日日曜日には久しぶりにHMGゴルフがあるので歩くことにした。5月の夜の空気は気持ちよかった。

 西弘前駅で降り、弘前クリニクの前の通りを行き、踏切をわたって、できたばかりのとき「自衛隊裏通り」とよんでいた道を城南2丁目のわが家の方へ足を運んだ。

 ここまではいつも通りの全く平和な宵であった。

 

 城南ストア−の前から弘前学院へ向かう道と、左へまがって行く道の三叉路のちょっと広い道をすぎ、斉藤商店の前、かどの須藤さんの家を表通りから裏通りへ曲がった時だった。表通りをゆくよりその方が家に近いのだ。いつも歩く道である。だが夜の道は思いのほか暗く細い道だった。

 誰か男二人がたたずんでいるようであった。

 足早にそばを通りすぎた。

 誰かあとを追ってくる気配がした。私は足を早めた。

 追ってきたうちの一人が私の前に立ちはだかった。もう一人は後ろにひかえているようだった。

 「やばいことになったな」一瞬そう思った。

 前にたちはだかった男がなにやら「津軽弁」で口早にしゃべった。まるで外国にでもいったようでよく聞き取れなかった。

 その時の言葉の調子から私には「何故自分をみたのか」とか「何をしにここへきたのか」とかと受け取れるような調子であった。

 とっさに家がこの奥にあるから帰るところだと急いで言った。

 立ちはだかった男の顔が表通りの方からの光に照らされて一瞬目に入った。頭の髪の毛は今はやりの茶髪というよりやや白目に染めた頭から毛が立っているような形の髪をした面白のやせ形の青年であった。年齢は20歳前後との印象であった。そこをどいてといってもどく気配はなく、先へ行こうとすると手を胸にかけて押し戻してきた。

 大声を出そうかとも思ったがとっさには声が出なかった。「お金かな」とも思ったが、口にはださなかった。

 この近くには一人身の女子大が沢山下宿している。そんな人をねらって待ち伏せしているのかなとも思った。

 私のような老人を相手に何をしようと思っているのか分からなかった。

 何しろ言葉が分からない。何かぶつぶついっていた。

 私がちゃんとした濃紺黒目のス−ツを着ていたのが彼らにとっては異様にとられたかも知れないとも思ったりした。

 20年も前学園紛争はなやかなりし頃はそれなりに緊張感があった。評議員をねらえなどとささやかれていたこともあった。医学部の学生ではなかったが本部での学生との団交の場で「何故顔をみつめるのか」などとおこった顔をこわばらせて話す学生がいたことを思い出した。

 しばらく忘れていた記憶が甦った。

 30年前世界一人旅をしていたときは、それなりに緊張して歩いたことを思い出した。

 彼らの目的は何であったのであろうか。分からない。

 表通りの方へ引き返し足早に歩いた。後ろにひかえていた男が一人あとをつけてきた。私より背が高い170センチ位な上着をつけていたかどうか逆光でみられなかったが。ならんで横に歩くまで追いついてきた。何か言いながら。

 早く歩くだけではだめだ。走って逃げなければならないと思った。

 だが私はこの年(78歳)で走ることに耐えられるられるか心配であった。

 

 追いかけられ、息を弾ませながらどうにか2丁目14の5の家の玄関までたどりつくことが出来た。

 わが家の玄関の明かりは人が近かづくと光度が増すようになっている。玄関に入ってどうにか助かったと思った。

 そしてすぐ警察に知らせなければと思った。

 家内は息を弾ませ顔色はどうであったか帰ってきた私に何がおこったのか分からなかったようだ。タクシ−の運ちゃんと一ともめあったのかと思ったそうである。

 110番は初めての経験であった。

 家内に電話をといった。受話器をとり、出たあと、口が乾き水気がなく息を弾まして住所氏名そして事件の概略を喋った。

 金品の略奪というような見かけ上の実害はなかったが、このような「事件」は小さい事件だとしても、「情報」の一つとして警察に報告しておいた方が良いとの判断であった。

 110番の相手の口振りは、こちらの興奮している口振りとは違って、事務的なものであった。

 相手の服装、年齢、身長など。暗くてよく分からないのにしつこく聞いてきた。それがないと情報にはならないのであろう。

 話しているうちにこの110番の受付は弘前ではないことが分かった。110番は青森で中央管理しているとのことだった。

 「これは録音してあるのでしょうね」と聞いてみた。細かい住所の場所は画面にでもすぐ出るしかけになっているのであろうか。

 この概要をこれから「弘前」へ連絡しておきますといっていた。

 あとで連絡が必要ならばと当方の電話・氏名は伝えておいた。

 それで電話の件はおわった。

 家内が懐中電灯をもってすぐ外に出たときはもう人影はなかったそうである。その夜も翌日も何もなかった。

 

 翌日津軽CCにゴルフに出かけた。快晴であった。組み合わせで菅原光雄先生と一緒になった。昨夜の出来事をかいつまんで話した。

 コ−スのパ−4のところで、つづいて8・8パ−パ−とたたいた。

 「先生は精神的なダメ−ジを受けている。しばらくじっとしているほうがよいですよ」とは先生の診断であった。

 「でもそのあとはどうなるのでしょう」「こんな事件はそれでおわってしまうんでしょうか」とは菅原先生の感想であった。

 「疫学の専門家の立場からいうと、こんな小さな事件の情報が極めて重大なものと考えます。だから警察に電話したのです。週末の電話には酔っぱらいのいたずら電話がおそらく何件もあるのでしょう。そのうちの一つとして警察はどう判断したのでしょうか」

 「佐々木弘大名誉教授街頭で刺殺」とでもニュ−スになれば社会問題になるのでしょうか」

 「開業して市民に接している方は毎日こんな事件を経験しているのではないでしょうか」

 「40数年平和な弘前で暮らしてきた中で今度の事件・経験は初めてでした」

 「これも社会現象の反映でしょうか」

 「ピストルで一発が起こらないだけよかったか」

 

 「西弘六本木」といわれるこの地区で、週末は学生で賑わうという。そんな中で「落ちこぼれの青年達」ともいえる人たちが何か憂さ晴らしをしたい気持ちになるのではなかったのかとの思いもある。

 でも訳の分からない言葉で呼び止められ、行く道をふさがれ立ちはだかられたとき、生命の危険をも感じたとき、この老人ともいえる者として何をしたらよいのであろうか。

  「教訓の一つ。 暗い夜道を一人では歩かないこと。」

 「ちゃんと車で帰っていらっしゃい」

 このメモをコンピュタ−に書き残し、私のホ−ムペ−ジ「http://133.60.238.51/~sasakin/naosuke.html」に記録として残しておいた方がよいと考えた。

 そして参考までに警察本部長と新聞社へコピ−を送ろうとも考えた。

  平和な生活を守るための一助として。(.990524)

(弘前市医師会報,266,74−76,平成11.8.15.)

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