私が「たばこをやめた日」は1965年(昭和40年)11月29日である。
アメリカでの在外研究の途次、立ち寄ったシカゴの衛生部(Board of health)で見聞きしたことが、そのきっかけであったと思う。循環器疾患の疫学の研究上知り合ったDr.Stamlerが当時部長をしていた衛生部を訪問した時であった。衛生部内が「禁煙」であり、廊下にはいくつかの風刺絵がかかげられていた。
それまで私は「たばこ」と健康との関わりについては、全くの無知であったといえよう。
海軍時代、「たばこ盆だせ」は「やすめ」の用語であり、戦後の外来の「レイション」といっていたと記憶にあるのだが給食の缶詰には、開けてみると片隅にいつもたばこがそえられていた思い出がある。たばこの配給があって、当時それほどだばこ中毒ではなかった自分はたばこよりそのたばこをお米に換えた思い出もある。昭和23,4年の東京での生活であった。
慶應の衛生時代のテ−マがCO(一酸化炭素)中毒であり、たばこの煙の中にはCOが含まれており、たばこの煙を吸入させたねずみは容易に死亡し、その血中COHbを測定したりしたこともあった。また室内の換気の善し悪しを当時行われていたCO2ではなく、COでも検討出来るのだとの研究論文を書いたこともあったのだが。
東北に多い高血圧の成因に室内のCOとは関係はなさそうだということもあったが、「たばこと健康問題との関係」については全くといってよいほど意識がなかった。
たばこ屋の前に立って「け」といえば「たばこ」が手にはいる便利な津軽弁の国、またアメリカへいっても、英語を喋らなくても「自動販売機」ですきなたばこが手にはいる世の中で、どれがうまいか品定めをしていた自分が思い出される。
そんな時、シカゴの衛生部の見聞きしたことは、衛生学者と自認する私にとってはショックであったといえよう。
それから、訪問先がアメリカの東へ行くにしたがって、たばこに対するアメリカの学者の考え方が変わってゆくのに印象づけられた思い出がある。当時はまだ「紙巻きたばこ」だけが悪者にされ「パイプ」はまだゆるされていた記憶がある。丁度コ−ヒ−に砂糖幾つかが問題視されていた時代であった。
昨12月8日医学部の基礎教授の水曜会の忘年会が野の庵で開かれとき、あのヘビ−スモ−カ−であった菅原和夫教授が「個人的なことですが、今私はタバコを止めて2か月になりました」と挨拶された。「イギリスへ行くのに12時間禁煙の飛行機にのらねばならず」「ニコチンのパッチとガムをつかって」「向こうへついたらたばこがうまくなかったので」「やめられた」とのことであった。これが「きっかけ」になればと思った。
昨年の教室の会だったか、皆に「教授に色々心配をかけないように、たばこの量がふえることが心配です」と喋ったことを思い出した。彼の「防衛機能」はいくら高めても、たばこには触れない方が良いにきまっていると思うからである。
「健康日本21」を提唱した厚生省があたかも「カルト集団」かにうけとられる論説を書いていた方がいた(読売991129)。同日のネット上の「The Daily Yomiuri」で「no exception」と書いていたので、そう受けとっても良いと思われるが、この話についての感想は次ぎにゆずることにする。(991209tab)