13 りんごを食べて血圧を下げた実験

 

 りんごを食べると人の血圧がどのように変わるものか実験してみたいと思った。 人体実験である。「でも、りんごをただでもらえるのだから」とこの調査にはすぐ協力が得られた。

 りんごを生産している青森県の津軽地方の人々と、秋田県の水田単作地帯の人々とで血圧や脳卒中死亡の様子が違うのは、りんごを毎日食べていることに関係がありそうだと考えられたので、それを実験的に証明したいと考えた。

 現在では、このような調査・研究は疫学的研究の中の介入、あるいは干渉研究(intervention study)と呼ばれ、最近、世界中で展開中である。

 昭和31年に私が衛生学の教授になったとき、秋田県の井川村の診療所に勤務していた三橋禎祥が助手になって勉強したいという。ここは秋田県の水田単作の農村で、りんごは作られていない。この村の人にりんごを食べてもらって調査するちょうどよいチャンスだと思った。教室に来る前に現地で仕事をしてしまおうというわけである。

 実験計画を立てた。りんごを食べてもらう人と食べない人を含めて、実際には21戸38名の中年男女の農民が選ばれた。

 昭和32年3月13日から4月6日の22日間観察した。毎日同じ時間に各戸訪問し、血圧を測定し、1日ごとに溜めた尿を集めてくる。初めの1週間は両方とも同じように観察するだけの対照期間。それがすむと10日間一方だけりんごを食べる。そのあとの1週間また観察するという計画である。

 弘前からりんごを貨車で運んだ。当時の主の品種であった「国光」を一箱づつ各戸に置いて好きなだけたくさん食べてもらった。その平均は1人1日6個であった。尿は1升ビンを預け、1日分蓄尿してもらってメスシリンダ−で計測して尿量を求めた。その一部は弘前大学の教室へ運び、ナトリウム(Na)とカリウム(K)とクレアチニン(Cr)を測定した。

 あとは計算である。

 当時は手動の計算機しかなかったから、時間はかかった。特に1人1人対照期間の前の1週間に測定した血圧の平均値をその人の血圧として、それと毎日の血圧測定値との差を個人的に計算するという、統計学的にいえば対応のある場合の計算をした。また。りんご摂取期間の両者の血圧に差の検定は、時系列の差の検定で、結果がでるまでに1カ月もかかった。

 秋田県の農村の人々の3月から4月にかけての血圧は三寒四温につれて変動していることが分かった。

 また、始め対照にした前の1週間は両群間に差がないのに、一方にりんごを食べてもらった10日間は、りんご摂取群の血圧は統計学的に有意に低下していた。

 図2は、その血圧の推移の傾向を両群の平均値で示している。ちょっとわかりにくい図ではあるが、その線の意味するところは、上に述べたような計算の結果でてきたものである。

 またりんご摂取の期間、対応するように尿中カリウムの排泄が多いこと、また少しナトリウムの排泄が増加している傾向を認めた。

 医学的研究報告として、尿の測定を行った福士襄と3人の名前で速報1)し、本報告は三橋禎祥の学位論文2,3)になった。

 昭和34年4月1日第29回日本衛生学会に初めてこの結果を報告したとき、大学を出たてのA君が「りんごのプラセボを与えましたか」と質問した。A君は、今Y大学の公衆衛生学の教授である。

 当時、薬の効果を示す研究論文について統計学的に反省が加えられるようになった時代であった。

 薬を与えた人だけ観察して効いた効いたという結果だけでは、対照がないからいけない。対照の人には「偽薬」(プラセボ)−本来の意味は偽ではなく、満足するもの、要はその気だけでよくなるもの−を与えて比較検討したか、また、投薬のどれが本物でどれが偽薬かは患者も医師も知らないという二重盲検法が望ましいと考えられるようになっていた。

 私の答えは「りんごであってりんごでないものは対照者には与えることはできませんでした」であった。

 りんごをもらったとか、もらえなかったかが血圧に影響したか、それは永遠の謎である。 でも当時は、りんごが血圧に影響することは誰にも分かっていなかったし、その知識はなかった時代であった。何か血圧によさそうだという報道があると人の行動はいろいろ変化するので検討が困難になることがある。

 しかし、この研究ではりんご摂取群の尿の分析からりんごを食べたことによるカリウム増加という証拠が示された。

 このような調査研究が今後できるとは思えない。りんご業者から資金をもらったわけではない。りんごを人に食べてもらって血圧を観察した研究ができたことは幸いであった。また、貴重な研究であったと思う。

 メネリ−(G.R.Meneely)らが後に、ナトリウムとカリウムについての総説を書いたとき、日本の東北地方のりんご生産地帯の人々が食塩が多量にとっているにもかかわらず、りんごのような果物の形でカリウムをとっていることによって、比較的血圧が低いというわれわれの研究論文の結果を引用した。そして、ラットの慢性食塩中毒の害をカリウムを与えることによって防げることができた、というメネリ−らが行った動物実験の結果が人にも同様に当てはまることを示す証拠であると書いた4)。

文献

1)佐々木直亮,他.:医学と生物学,51,103,1959.

2)三橋禎祥:弘前医学,12,50,1960.

3)三橋禎祥:弘前医学,12,57,1960.

4)Meneely,G,Rand H.D.Battarbee:Nutrition Reviews,34,225,1976.

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