りんご酢というと、アメリカのバ−モント州のりんご地帯の農民が、自家製のりんご酢に蜂蜜を混ぜて飲むと健康によいという「バ−モントの民間療法」のことを思い起こす人も多いだろう。
5代続きのバ−モント州民で80歳になったジャ−ビス(D.C.Jarvis)という医師が、土地のさまざまの風変わりな医学的処置について研究討議をかさね、自ら正統医学をかなり変えることになったという、長年にわたって成功裡に使われてきた土俗的な家庭医学の本質と用途を広く世間の人々に知らせるために、1957年に書いた本「FOLK MEDICINE」(バ−モントの民間療法)がアメリカでベスト・セラ−になって版を重ね、また、わが国でも訳本が昭和36年(1961年)に出版1)されて、りんご酢のことが一般に知られるようになった。
アメリカ大陸発見後、アメリカへの早期の移住者たちはりんごの種子や苗木をヨ−ロッパから持参し、東部沿岸一帯に広めたといわれるから、その子孫に至るまで、りんごに頼った食生活があったと推測される。サイダ−といわれるりんご酒(日本ではシ−ドル)やりんご酢があり、それに蜂蜜が入っても不思議ではない。
そしてジャ−ビスは、「70歳以上まで人生を引き延ばすことができるということは、土地と密着して生活するバ−モント州民を研究することにより十分に証明される。私は研究すればするほど、人の生涯の延長と、日々の食料摂取の間に、密接な関係があることを見出した」と述べている。
「バ−モントの家庭医学には、体内のミネラルの必要を満たすために、しごく簡単な処方がある。それは茶さじ2杯の蜂蜜とりんご酒からつくった酢の茶さじ2杯をグラス1杯の水に混ぜて、1日1回または数回、その日の精神的または肉体的活動の量に応じて適宜飲むということである。この混合液はりんご酒のような味がする。りんご酒の酢のりんごのもつミネラル含有物をそのまま含んでいる。蜂蜜はまた花の蜜にあるミネラルをそのまま含んでいる」
しかし、この本には学術的な研究論文の紹介はなく、自分の見解が述べられているだけなので批評ははできない。しかし、自らの子供のときからの経験、取り扱った症例、尿の変化、またカリウム(英語ではポタシウム)の効果について触れている。また、りんご酢だけでなく蜂蜜の有用性も述べている。
「食酢」は酢酸を主成分とし、他の有機酸、糖類、アミノ酸、エステルなども旨味と芳香成分として含むもので、醸造酒、果実酒、合成酢、加工酢などに分類される。
りんご酢はりんごを材料にし、発酵により作られろもので、醸造酢に入る。
りんごを磨砕、搾汁し、汁液に酒精酵母を加え、アルコ−ル分を4-6%に調整し、酢酸発酵を行ったもので、アメリカではりんごの果肉をジャムにし、残滓の果皮と芯を酢の原料とすることがある2)。
りんご酢の主成分は酢酸であるが、酢酸を摂取した場合の生理作用、またりんご酢として作用はどうであろうか。
東大医学部薬学科の秋谷七郎は、第2次大戦中、潜水艦内において味噌の防かび剤としてクエン酸を添加混用したところ、防かび効果と共に乗員の健康状態が著しく向上し、長時間の潜航に耐え得た事実を知り、クエン酸が人体の代謝に何らかの影響をおよぼすものと考え、有機酸の摂取によって生体内酸化にどのような影響があるかを、主として尿の成分、特にpHの変化を追究することによって研究した3)。
ちょうど人体の代謝の過程の1つである。酸素が十分ある場合、ビルビン酸から酸素を消費する経路をたどるビルビン酸酸化過程を、その発見者の名前をとってクレブス(Krebs)回路といったり、あるいはその途中に出来るクエン酸が、カルボキシル基3つをもつカルボン酸化合物であることから、トリカルボン酸サイクル(TCAサイクル)という重要な代謝回路の研究が発表になり、またこのクレブス回路が炭素化合物の完全燃焼の場合ばかりでなく、脂肪酸やアミノ酸の酸化燃焼の場合にも、その代謝の終末の段階ではこのサイクルに合流するので、非常に重要な発見であったが、秋谷らはこのクレブスの回路の理論の完成を知って、有機酸の摂取の人体内の影響を考察したものである。
第3報4)で、クエン酸だけでなく酢酸の摂取についても研究し、酢酸を経口投与すると、尿中に排泄する乳酸が約3分の1または5分の1まで減少することをみて、血中乳酸量の減少を推測し、尿pHの変化を観察した事実をクレブス回路から解釈した見解として述べ、さらには酢酸が高血圧予防になるのではないかと述べた5)。
酢は人類の食生活の中で酒と並んで極めて古くから日常摂取されており、一般向きの健康雑誌にはよく登場するが、その作用についての科学的研究はほとんど行われていない。
われわれが日本の中年期脳卒中の死亡率の地域差と関連のある栄養因子を検討6)したとき、日常の食塩摂取量と正の相関を認め、その相関を高血圧との関連としては前に述べたが、ちょうど同じ研究の中で、日常摂取している「食酢」は食塩とは違って、中年期脳卒中死亡率とは負の相関を認めたのである。すなはち「食酢」を多く摂取している地方は、中年期脳卒中死亡率が有意に低かったという結果であった。
これは初めての所見であったので、大変興味を覚えたが、食塩との相関により興味があったので、食酢についてはそれ以上追究することなく過ぎてしまった。
ただ当時、味覚の電気生理学的研究7)によって、味覚の受容器は味蕾であり、味刺激に対する鼓索神経の応答の空間的あるいは時間的パタ−ンがお互いに類似しているときは、似た性質の味覚を起こし、相異なったパタ−ンを示すときは、異なる性質の味を示すという仮設が述べられており、食塩と食酢は栄養素としては違うのに極めて似通った反応を示すことを知ったので、低塩のための実際的な食生活改善の指導の際、食塩の代わりに食酢を用いることに合理性があると考えたが、それ以上の追究はしなかった。
弘前大学薬理学教室の藤田昂は、食酢の中の、特にりんご酢が保健飲料としてかなり利用されるようになったが、その作用機序に不明な点が多いことから、りんご酢が高血圧予防薬になるかどうか、りんご酢の主成分の酢酸ではどうかを検討するために実験的研究を行って、その結果を報告した8)。
実験的に動物に高血圧を起こす方法はいろいろあるが、副腎皮質ホルモンであるDOCA(desoxycorticosterone acetate)と食塩を与えてラットを高血圧にして実験を行っている。ラットにDOCA5mgを隔日に皮下注射しながら、1%の食塩水を飲用させると、週が進むにつれて血圧が上昇する。ところが、これにりんご酢を同時に投与すると体重も比較的順調に増加するが、昇圧はかなり抑制される。しかし、りんご酢の主成分である酢酸では、DOCAと食塩による昇圧はほとんど抑制されなかったという結果を得た。また尿へのNa,Kの排泄を観察し、大動脈壁のNa,K量を観察しており、DOCA-食塩群においては、いずれも対照群より増加しているのに、DOCA-食塩-りんご酢群ではK量は対照群より増加していたが、Na量の増加は認められなかった結果を報告し、りんご酢が大動脈へのNaの貯留を防止することは、血管壁の膨化を軽減することがDOCAと食塩による昇圧抑制に対して意義があると考察した。
さらにりんご酢の分析を行って、りんご酢の主成分は酢酸であり、その含量は約4.5%であり、エキス成分からは、カリウム・カルシウムなどのミネラル、ペクチン様物質、ペクチンの分解産物と推定される融点160度Cの白色結晶、グルタミン酸、アスパラギン酸などのアミノ酸、フルクト−ス・サッカロ−スなどの糖を検出した。原料は青森県産国光であった。そしてラットのDOCA高血圧に及ぼすりんご酢の効果は、それまでに薬理学教室で行ってきた一連の研究から、りんご酢の各成分の協力作用によるものと考察した9)。
1)D.C.ジャ−ビス/大原武夫訳:バ−モントの民間療法,ダイヤモンド社,東京,1961.
2)中川一郎,他.:新栄養学,朝倉書店,東京,1968.
3)秋谷七郎,本橋信夫:薬学雑誌,76,111,1956.
4)本橋信夫:薬学雑誌,76,120,1956.
5)秋谷七郎:日本医事新報,1938,125,1961.
6)佐々木直亮,他.:日本公衆衛生学雑誌,7,1137,1960.
7)佐藤昌康編:味覚.臭覚の科学:朝倉書店,東京,1972.
8)藤田昂:弘前医学,18,470,1967.
9)藤田昂:弘前医学,18,489,1967.