昭和30年8月9日の新聞に「りんごの多食は歯に害、酸に冒される」という記事がのった。坪井邦久が6日、仙台で開催された東北地区歯科医学会での「りんご酸の歯牙組織に及ぼす影響」のテ−マで報告したことを伝える記事であった。
それは、りんごの酸性分が歯に意外な影響を及ぼしているのではないかと、例えば国光には2.99%紅玉2.99%、ヤマトニシキ3.09%の酸性含有量があり、この酸は10日から14日ほどで、歯のホウロウ質を溶かすことが分かったからということであった。弘前市内の歯科診療所での診療観察から、農家の人たちは、若い年齢にかかわらず、歯のホウロウ質をいため、歯が偏平になっているということであった。
ここでいう酸性含有量として記載されていたものが何を意味するかは不明であるが、一般にりんごの酸度としていわれるときには、りんご酸を主に、少量のクエン酸、酒石酸を含む科学的組成としての総酸として示されるが、0.5%前後含まれていることが知られているし、水素イオン濃度のpHは3.5程度である。
坪井邦久は「単にりんご愛好者程度の人たちには影響がない。けれどもりんご栽培者たちは出荷の最盛期には、1日30も40も食べるのが普通で、こうした者の歯は全部ホウロウ質がいためられ歯を弱めてしまう。これが中年層になると、もう歯が抜けてしまう原因にもなる。間断なく食べることは特に歯には悪影響があることは事実だ」と述べた。
ちょうど弘前に住むようになって、りんごに興味をもち始めたときでもあり、またう歯の予防も考えていたときでもあったので、この記事は大変興味を覚え、切り抜いておいた。
日本人にう歯が多いこと、また、そのう歯が戦時中減少したことは砂糖の消費の減少と関係があるのではないかといわれていた。
しかし、なぜ歯はう歯になるのか、砂糖とはどういう関係にあるのか、また、どうしたらう歯の予防ができるのかについての疑問にこたえる研究が当時はほとんどなかった。
われわれは弘前地方のう歯についての疫学的研究を展開した1)。
その結果分かったことは、弘前地区ではう蝕罹患の高度なこと、う歯はその罹患率が一般には都会が高く、郡部に低いといわれているのに、津軽では郡部が市部よりも高率であること、また永久歯の萌出の状況をみると市部が、郡部及び他府県よりも、遅延していると考えられることなど、他地区に見られない特徴を有することが分かった。
この青森県内弘前地区にう歯が多いという所見は、鈴木信吉が報告2)していた北海道の余市地区におけるりんご園地区の学童よりもう歯罹患が高度であるという成績と同様、津軽地区がりんご園の中心地域であってう歯が高度であることと一致していた。鈴木は、北海道のりんご生産地帯から来る小中学校生のう蝕発生率が、他の地域の学童生徒より10%内外高率であることを認め、りんご地域の子供たちは1日10-20個のりんごを摂取しており、りんごにはりんご酸、クエン酸などの有機酸が含まれていることと関連しているのでないか、また、りんご地域の学童には歯肉疾患を認めず、扁桃肥大や歯列不正の少ないことは、どんな理由かと考えると、おそらく、りんごの多食による機械的清掃作用の増強とか、りんご汁中に含まれている各種の化学的成分による収斂作用に対して、ある程度の考慮を払うべきであろうと述べている。
弘前地区の学童の歯の萌出が遅れていることは、身長発育と関連のある一般の栄養状況と関係しているのではないかと考えた。
われわれの疫学的研究によって得られたその他の重要な所見としては、前に述べた同一出生年次群を追究するというコホ−ト分析を、う歯罹患状況に当てはめて検討した成績であった。
それは、同一地区の同一年齢群のう歯罹患状況の長期観察の資料3)によっても、文部省の全国資料4)によっても、戦時中にみられたう歯の罹患状況の低下の減少は、乳歯でも永久歯でも、それらの萌出後の比較的短い期間における生活環境に規定され、萌出前、またはある年齢以後の生活環境はあまり大きな影響を与えないように思われた。この報告は、う歯の統計的観察におけるコホ−ト分析の有用性を述べたものであったが、竹内光春3)は1個の歯芽を1単位として一定期間内の罹患率を観察するという方法を用いて、主として第一大臼歯について砂糖摂取とう歯発生との関係を検討する歯科の専門的研究によって、う歯発生には歯芽形成期ではなく、萌出後の砂糖の多量摂取の影響が著しいという結果を得た。
歯には乳歯と永久歯とあるが、それぞれのう歯(ムシバともいう)は歯科用語のう蝕(dental caries, decay)とう蝕罹患歯(decayed tooth)の両方を意味している。
う歯の発生原因としては古くからいろいろな説がいわれているが、口腔内常在細菌(Streptococcus mutansなど)による混合感染により引き起こされるとされ、エナメル質表面にたんぱく質性のペリクルが形成され、その上に微生物が集落をつくり、歯垢(plaque)の形成が始まる。歯面の歯垢は細菌にとって温床であり、増殖に適した環境である。特にストレプトコッカスム−タンスは糖質(ショ糖)を分解、重合してホモ多糖類をつくり歯垢形成を促し、この歯垢中に存在する酸が、歯面にエナメル質を溶解し、う蝕が発生する、というのが現在最も有力な説である6)。
前に述べた疫学的研究の所見によって、う歯は乳歯にしろ永久歯にしろ、その萌出直後の歯の環境に支配されると考えると、この環境をつくるものが砂糖摂取があり、戦時中、砂糖摂取が減少したことは、歯垢形成を抑制し、う歯をつくらないよう口腔内環境を変化させたことであろうと考えられる。
う歯の予防対策にはいろいろあるが、口腔内環境への対策としては、口腔清掃が最も基本的で、細菌の基質になる食物残渣の除去、歯垢の除去を目的とする。う歯に予防のために歯垢を歯面から取り除くこと、すなわち、歯口清掃(歯磨き、ブラッシングともいう)によって細菌の繁殖能力を低下させることが大切であるというわけである。
日常摂取している有機酸が歯のホウロウ質にとって悪い作用をすることは理解できるが、その接触時間及びその程度が問題になろう。りんご生産地域では何十個と食べ続けることが問題になったのか。
一方、りんごは欧米で自然の歯ブラシ(Nature's toothbrush)といわれている。
「ランセット」という医学雑誌に載った論説をみると、”an apple a day”ということの利益についてあまりちゃんとした研究はないが、少なくとも予防歯科学の立場からは”りんごの主張”(apple's claim)については古くから、1900年代の始めから、繊維質をもった食物をもっと食べるようにいわれていたという。そして1958年になって初めて対照をおき、プラセボ(偽薬)はもちいてはいなかったが、統計的に子供たちを研究した成績が発表された。2年にわたってスライスしたりんごを食べさせた結果、歯齦の状態がよくなり、う歯が減ったという。それはりんごが単に歯の表面を機械的に磨くだけでなく、食物の残渣を洗い流すに十分な唾液の分泌増加があるからでなく、その唾液の分泌はりんごジュ−スの水素イオン濃度(pH)が低いためと、繊維片の咀嚼によって増加したのではないかというのである。
りんごの果肉の繊維は柔らかく、歯にへばりつく性質はないし、歯の表面に付く食渣を清掃する作用があることは想像できる。また、りんごは唾液分泌を促す作用もあることだろう。細菌繁殖に対する研究は見あたらないが、口腔内の清掃作用という点から、う歯予防の効果があるのではないだろうか。う歯の予防として繊維質の多い野菜、果物は歯面清掃に役立つと述べられている6)。
昭和62年10月、弘前市立三和小学校の児童保健委員会では生徒達に学校給食の食後、歯垢検査のため染め出し液を歯に塗って調べるというプラ−クテストを行って、りんごを4分の1という少量食べるだけでも、前歯の先端と奥はの噛み合わせの部分が染まらず、汚れが落ちることを認め、「りんごがぶり、歯磨き効果」「食後のりんご、歯にいいよ」という研究発表を行った8)。
1)藤田良甫:口腔衛生学雑誌,7,136,1958.
2)鈴木信吉:歯科学誌,8,126,1952.
3)武田壌寿,藤田良甫:医学と生物学,46,78,1958.
4)武田壌寿:医学と生物学,47,112,1958.
5)竹内光春:歯学学報,39,67,1959.
6)堀井欣一:口腔衛生/藤原元典ら編:総合衛生公衆衛生学,pp.1378-1394,南江堂,東京,1985.
7)Leading Articles:Lancet,I,753,1964.
8)東奥日報:昭和62.10.21.毎日新聞:昭和62.12.21.