明治18年(1885年)5月17日東京に生まれた父(佐々木哲亮テツスケ)は昭和54年4月17日(1979年)死亡した。満93年11カ月の生涯であった。
生前父が書いた「佐々木家系図」によると、父は「和亮」「清子」の間に生まれた長男で、上に女2下に女1男2あったようだが、私の記憶にあるのは叔母にあたる父の妹の「郁子」(久米治平の妻)だけである。兄の手元にある過去帳をみたら、他の方は行年當歳とあった。
「清子」(伊藤八兵衛の次女)は明治23年35歳で亡くなっているので、父が5歳か6歳の頃母を亡くしていることになる。
「ばあや」に育てられ、男の子一人ということで、それはそれは大事に育てられたのではなかったか。
そのばあやがやめたあと、彼女の故郷の房総の興津へ夏休みとなるとよく海水浴に連れられて行ったものだった。いつだったか、父が台所へ足を踏み入れたらそのばあやから「若様はこんなところに入ってはいけません」とたしなめられたという話があって、父が亡くなるまで身内から良くいわれ、からかわれていたという「エピ−ソ−ド」があった。
両国から別の汽車にのってという旅であったが、帰りの汽車の窓からあの「チェッペリン号」が東京の空に浮かんでいるのを一目みたという記憶のあるそんな時代である。
父との一番の思い出は、毎年9月1日になると、青山墓地に墓参りに連れられていったことである。それも「梅窓院」にある「佐々木家代々の墓」ではなくて、大正大震災で亡くなった祖父の墓であった。
その墓地は「東京都青山霊園墓所」で、祖父が東京市市会議員として手に入れたものではないかと想像するが、若く亡くなった祖母「清子」のためにかなりの墓を作って、自分は後から入った墓である。9月1日ということで父の祖父への思いとばかり思っていたが、案外父には自分の母への思いがあったのではなかったか。
我が家の宗教は浄土真宗ときいていたが、法事などの行事はほとんどやらず、「無宗教」の家だった。だから命日には家に中華料理の出前を頼んで「賑やかなことが好きだったから」といって親戚をよんで会食をしていた。小さい時だったから、家の台所で白い服をきた出前の料理人が大きな鍋で料理しているのを、興味深く眺めあちこち歩き廻っていた記憶がある。今思うとそんなに広い家ではないのに三井物産に勤めていた父の精一杯のふるまいではなかったか。
明治42年徴兵の際の「深川区小松町七、士族和亮長男佐々木哲亮:徴集免除」の小さい一枚の紙がある。文面に「本郷聯隊區徴兵署ニ於イテ頭書ノ通リ終決處分ノ上第二國民兵役ニ編入相成候條此旨通達ス:東京市深川区長」「本書ハ年齢満四十歳迄保存スルモノトス」とあった。祖父が口を利いたのではないと思うが、長男それも男一人だったから徴集免除になったのだと聞いた。
父はそんな時代にそんな環境で育ったのであると思う。
先日「中上川彦次郎の華麗な生涯」(砂川幸雄著、草思社、1997、p228)を読んでいたら、福沢諭吉との関係で「長男の太郎一さんが行っておられた慶應の幼稚舎よりも暁星学院のほうが厳重のようであるから」という「子供の教育に無関心ではなかった」というくだりがあって、当時の親達の子供の教育に対する関心がわかったが、その「暁星ギヨウセイ」に父は入っている。
フランス語や英語もあったらしく、電車の中で外人の子供達が座席の上をたたいてほこりを立ててふざけて遊んでいたときに「プレンテイオブダスト」とかいったら「オ−ケ−」といって悪ふざけを止めたという自慢話はよく聞かされた。 乗馬もやっていたようだ。そして謡も観世の家元についてならい、「おおかわ」もやっていた。私の小さい時「お能」にもよくつれていかれ、舞台の上での父を見ていた。寒稽古で小便が赤くなるまでやっていたという。そのたたきなれた手でお尻をびしっとたたかれたのだから、子供がかわいそうだと母がそばからいっていた。家元についてのものだから、そのレベルはかなり高いものだったと考えられるが、すべて趣味であった。私の耳元にはいつも「観世」の調子が流れていた。が私には小学校では西洋音楽だったから、その調子にはついていかれなかったし、教わりもしなかったし、教わろうとも思わなかった。大分あとになって色々と自分で手をいれていた観世謡曲の本一そろえをほしがっていた専門店に幾ばくかの金でてばなしたときもそれほど惜しいとは思わなかった。
戦後食えなくなって父はようやく謡曲の師範の免状をもらって、篠山で教えていて「趣味が身をたすく」といっていた。若い師範の人たちが随分の費用をかけて呼ばれているのを横目でみていながら、ほんの少ししか謝礼はもらわなかったようだ。
今の一ツ橋商科大学を卒業し、クラス会を世話しやっていて、だんだん数がすくなくなって数人というところまでやっていた。当時売り出しの「市丸」さんなどよんで。
三井物産に入ってからかテニスそれも硬球をやっていた。私の幼稚舎時代、日曜というと田町から省線にのって大森にあった三井クラブのテニスコ−トへ連れていかれた思い出がある。食堂にはバタ臭い良いにおいがあって、みなごちそうをたべているのに、こちらは母がつくった「小さなフランスパン」の昼食であった。
その父がリュウマチが足のくるぶしに出て歩くのはつらかったようだ。お灸をよくやっていた。また妹の郁子さんがやっていた「電気」もやっていた。本人は昔柔道をやって相手の足をけったからだといっていたが、私が中学生の頃だから五十歳前と思うが、三井物産をあっさりと止めてしまった。自宅も作ったし、今やめれば退職金が多く出るとか、その金を旨く回せば十分暮らせるという計画だったのであろう。我が家にはその金を旨く回してくれていた人がよく出入りしていた記憶がある。
今度はスケ−トをはじめた。丁度近くの芝浦にスケ−ト場ができて、中学生の私にもカナダの「CCM」付の靴を買ってくれた。でもそのうち足が大きくなるからといってちょっと大きめの靴がいいといったが、それは今思うと私には失敗だった。スケ−トそして大学生になってから今なおつづくスキ−に親しむことができたことは幸いであったが、靴がちょっと大きかったので悪い癖がついたと今思う。父は日光の金屋ホテルに母もつれず一人でいった。お尻に大きな打ちあざをつけてもしばらくやっていた。
私達兄弟が慶應で弓をやっていたこともあってか、弓も、庭にまきわらをおいてやりはじめた。
台湾以来のマ−ジャン。我が家にも象牙のパイがあり、私が小学生であった頃から四人家族で「家庭マ−ジャン」の卓をかこんだ。ただ「賭け」だけはしないという「家訓」があった。また「借金はしない」とも云われていたが、昔景気の良かった祖父の没落をみていたからであろう。
これらの趣味はその後の生活、主として「三井さん」達とのつきあい、またそれらの会の「事務」に日々を送っている内に大東亜戦争の時代になった。
鹿島に土地を何千坪か買って、私が大学生の頃それを一緒に見にいったし、またスナップした写真もあるが、戦時色豊かになったとき、「海軍飛行場となる土地」としてあっさり寄付してしまった。
兄が応召・出征し、私が海軍軍医になったあと、三田の家も処分し、母の里の兵庫県は篠山にあった山本の別荘に疎開した。昔祖父が世話した人の家だったからいつまでいてもいいんだよとは父はいっていたが、兄私はそうはいかなかった。そして戦後兄が両親を引き取った。
「趣味さまざま」「切手コレクション」という篠山での新聞記事のなかで「趣味は私たちの生活に限りないうるおいと、尽きぬ深さを与えてくれます。趣味は人の思想であり、見識であるともいえましょう」と記者に語ったとあったが、祖父の時代からの切手のコレクションがあった。「これは直亮にゆずるものとする」と書いてあったので、私に引き継がれた。記事に「ところでその所蔵の品は全部でどれくらいの金目のものかと愚問を呈したくなるが」とあったが、祖父が病気になって金にこまったとき「一枚」良いの三井さんにをゆずったといっていた。戦後兄の家にいたときもどこかでこっそりと現金に替えていたようだ。
私がロンドンで開催された世界心臓学会にいった時だから昭和45年だったが、丁度弘前滞在の時だったので弘前駅まで家内達と見送りにきてくれた。私が汽車のデッキに乗って手をふって別れるときだった。階段から「二転三転」と転び落ちる姿をみた。「ああ−」。ところが下に着いたとき「す−と」立ち上がった。あとで家内から聞いた話では「僕は昔柔道をやっていたからね」とすまして語ったとのことである。
90歳をすぎた頃だったか、脳梗塞で手足が不自由になって横浜の兄の家で寝たきりになった。母が世話をしていた。見舞いにいくたびに元気であったが「明日亡くなっても不思議でないし、いつまでかは分からない」と兄達に答えたものだった。枕元のラジオのイヤ−ホ−ンでプロ野球の中継を聞きながら、はずれたのもしらず寝込んでいた。「満開の桜」に書いたように、4月17日の明け方そばに寝ていた母が体が冷たくなって行く父に気がついたようである。
遺言はとくになく「子孫のために美田は残さず、しかし子供の教育だけは十分受けさせ、母カアサンはよくしてくれた、兄弟なかよくしろ」とのみ言い残して亡くなった。
死ぬまで寝ていた部屋に「美人」の写真がかざってあった。その人が誰なのか聞かずじまいにおわった。亡くなった母も言わなかった。面影は父の母の残された顔に似ているところがあった。 (9-11-28)