兄のこと

 

 私の兄(佐々木正亮セイスケ)は大正3年10月1日、哲亮、かねの間の長男として台湾高雄で生まれている。そして今も清里で元気でいる。

 私と六つ違いだからけんかにはならないが、小さいときおおげんかをして私が兄のうえになったとき、爪で兄の額をひっかいたことがあって、今もその傷が残っているはずである。

 三田綱町に住むようになって、兄はほんの家から数分のところにあった慶應義塾幼稚舎に入っている。父が三井物産に勤務していて、経済的によかったのか、大学とほぼ同じ位の月謝であったと聞いたことがあったが、私も含めて本当に良い学校に入れてくれたものだと思う。

 兄の小さいときの写真をみると「キュウピ−さん」のようだといわれていたように本当にかわいい子である。

 江沢清太郎先生という音楽の先生がいて、兄は歌が旨かったのであろう後に藤山一郎という名前になって歌の道に進んだ増永丈夫さんと一緒にステ−ジにたって兄が唱っていた姿、それも帝国ホテル劇場のステ−ジでの姿がまだ目に残っている。今タレント活動のはしりであったような姿であった。

 後に慶應義塾のワグネルに入り、80歳をすぎた今も地域の合唱団で唱っているようだが、バリトンの良い声をしている。

 兄が6年生私が1年生の時、兄が雨天体操場の二階の屋根から飛びおりて足をくじいたことがあった。「おもいきったことをする」と母から云われ、何日か兄を背負ってか手をかして学校にかよった記憶がある。

 普通部という中学校から、大学は経済にすすんだ。

 慶應義塾では経済が目玉であった。ゼミということで、経済の理論を学んだようだが、その内容は私には分からない。ただ現在もそれなりの考があるようで、三田評論とか地元の新聞にその考を投書している。大学に残って「教授」にでもなれば、それなりによかったのではないかと、側目から思うこともあるが、当時の大学に残る人はよほど経済的に恵まれた方のように見られていた感がした。兄は就職の道を選んでいる。

 第一銀行と三井銀行と両方うかったが、早く通知がきた第一銀行を選んだと聞いた。入ってみたら東大出と月給が5円違ったと云っていたことが今も頭にある。

 時代は戦時色豊かになり、第二乙の兄に召集令状がきた。綱町の我が家の前で銀行の方たちもきて、町内から送られた日のスナップをした写真がある。

 一兵卒の経験はどんなものだったか。殴られて耳を悪くし入院したとか、その内主計の幹部候補生になったとか、時に外出して帰宅してきた時の写真がある。 父がお嫁さんとして内々考えていたお気に入りの女性と結びつけようとしていたのではないかとの思い出もある。そんな時に大陸へ出発ということで品川駅に送りにいった。神戸から船が立つときかの女性も親戚でもあったので波止場まで見送りにきていたと聞いたが、その前後の兄の心境は聞いていないので分からない。私は大学生で姉になるかも知れない人だったし、良く知っていた方だったからそうなればそうなるで良いと思っていただけで、よくスナップしていた。

 だが中国の漢口で兄と今の義姉と運命の出会いがあった。そのいきさつ、その後のことは、当のご本人達に聞くよりほかはない。

昭和23年5月29日明治記念館にて

 第一銀行が戦後三井銀行と合併した。銀行に戻ったあと、兄は「組合活動」をやっている。担ぎ出されたのか、自らの意志か、分からない。

 いつだったか、大臣もやったこともある一松定吉氏、この人が何故ここに出てくるかは、私との関係を含めて数頁を要するので省略するが、「組合」の仕事はあまりやらない方がよいとか何とか云われたと聞いたことが頭の片隅にある。

 銀行では大した役職にもつかず停年を迎え、信用銀行へ次の就職、丁度業務のコンピュウタ−化へのはしりの時代で勉強していた。

 子供2人を立派に育て、家も作り、父母も引き取り、退職金、年金もそれなりにもらって、今度は信州の清里へ、新しい生活に入った。

昭和27年11月東京・天沼にて          平成7年10月清里にて

 今「新軽井沢」と云われるところだが、あの寒い土地で通年で生活する都会人達はまれであったが、そのはしりにあたる。今度は町内会の仕事に引っ張り出されたのか、自らかってでたのか、分からないが、地域の水資源とか、今の行政の矛盾とまともにぶつかる問題をかかえていたようだ。

 八ヶ岳の麓に共同の「墓所」を作ったらどうかといつか提案したそうだが、その言いぐさは今の調子では「日本中墓だらけになってしまう」といっていた。

 こちら次男の気安さがあるが、兄は長男として「佐々木家代々の墓」の管理者としての責任を生まれながらに負ってしまった。父母の納骨とか、法事とか、よくやっていると思う。

 いつだったか、兄が胃潰瘍から吐血して手術する段になって「直亮に連絡しろ」といったとかで、我が家では学会先のホテルまで私を探しに探したことがあった。医学の道に進んだ私を「たより」にしてくれるのは、有り難かった。

 家内にいわせると、兄に初めてあったとき、あの笑い顔ではあったと思うが「ああ−直亮のアレか」の言葉が忘れられないそうである。 (9-12-3)

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