記憶の糸をたどりながら(渋沢栄一)
今日平成9年6月11日新聞に「第一勧銀前副頭取ら4人逮捕」と大きく報道された。そして新聞のカラム欄には6月11日(明治6年、1873年)は「国立第一銀行」が誕生した日であることにふれ、そして「渋沢栄一」の名前が出ていた。
「渋沢栄一」がわが家の親戚であることは良く聞かされていた。
方や今ときめく「子爵」であり、「久米の清ちゃん」の母(久米郁子−父佐々木哲亮の一人の妹)など愛子さん(明石愛子−渋沢栄一の後妻兼子−伊藤八兵衛の次女−の娘)ととくに親しくしていて、自分の亭主(久米治平)と比較していたのか、よく母(佐々木かね)と話をしていた記憶がある。
小学校(慶應義塾幼稚舎)の時だったか「尊敬する人」という文を書くように云われたとき、母が「渋沢栄一」のことを書いたらどうと云われたとき、当時よく云われていた「妾の家に居りながら、訪ねてきた人に、ご本人の声で、さような人はここにはおりませぬ」と答えたという話が頭にあって「なんで尊敬する人として書くことができようか」と子供心に思ったことがあった。
母が「明治の女」として、和歌山女学校かの教師を何年かしていたことがあり、日本に普及し始めた「キリスト教」の洗礼をうけることをすすめられた時になって「心に姦淫するものは 罪をおかす」というくだりに「おお−こわ」といったという母のしつけか、教育か、行いか、振る舞いか、父が家にいたお手伝いさんに手をだすのではないかと絶えず心にあったように振る舞っていた、その母の影響を知らず知らず受けていたのか、その思いが「渋沢栄一」の名と共にある。
後日渋沢秀雄さん(渋沢栄一・兼子の子−三男、父の従兄弟)の「明治を耕した話」−父・渋沢栄一(青蛙選書53)を読んでいたら、「私も中学時代に父の秘事を聞いて、一時父に幻滅を感じたことを思い出す」「父の一友人を一番苦に病んだのは母である。その母も晩年には悟ったらしく、論語に性道徳の教訓が殆どないのを知って、笑いながら私にこう言ったものだ。(父様(オトウサマ)も論語とは旨いものを見つけなすったよ。あれが聖書だったら、てんで教えがまもれないものね!)」「婦人関係では脛(スネ)に疵持つ父も、女子教育には熱心だった。厚かましい真似だと冷評することも出来ようが、当人は罪滅ぼしの気持だったのかも知れない」と書いていた。
その秀雄さんが戦後随筆家と言われるようになって、随筆サンケイで座談会をやっているときその話相手の一人に林髞先生(生理学教授で私の学位論文副査:木々高太郎)がいることを知って、当時兵庫県篠山町に疎開したまま住んでいた父が秀雄さんにはがきを出した。その返事のはがきが今手元にある。
「冠省 今日「随筆サンケイ」の座談会で林先生といっしょでしたから、直亮さんのことを従兄の子だと話しましたら、林先生曰く、いい青年で篤学の士ですと大変ホメてくれました。貴兄のおことずけもよくしておきました。右は報告まで 敬三さんはだいぶよくなってこられました」と。日付けは昭和33年5月31日である。敬三さんとは渋沢栄一と先妻ちよとの孫で大蔵大臣をやられた方であるが、民族学も柳田国男のながれをくくみ、以前私が学生時代に戴いた「塩−塩俗問答集を中心として」の研究は貴重なもので、私が「食塩」の研究に入り、「食塩と健康」(第一出版)にも引用したが、なにかの縁であろう。十和田観光の杉本行雄氏も敬三さんの秘書をしており、私が海軍軍医として入隊するとき綱町の家まで餞別を持参して下さったことがある。杉本氏が「渋沢邸」を三沢の温泉に移したり、民族博物館を付設していることも、敬三さんの影響とみることができるのではないか。
渋沢栄一子爵が亡くなったとき、新聞記者が屋敷の床下にもぐりこんで足音の乱れを聞いて死亡時刻をスク−プしたといった話が記憶にある。葬式が青山斎場だったか当時幼稚舎生であった私も父につれられて行ったという記憶は、葬式を撮影した8ミリを我が家でみた時だったか、あの幼稚舎の制服をきた子供が焼香する姿をカメラマンがとらえたのか、「あ!写っている」との記憶があるせいなのであろう。
そのあと久米のおばさんが家へきて「いくらかのお金の香典返し」のおすそわけにあずかったかの話をしていた。 (9-6-11)