四谷道場でのこと(五十年前の日記から)
私が義塾を卒業したのは昭和十八年九月だから今年は丁度五十年目にあたる。
卒業した時の様子を「学窓から戦場へ」と新聞に書かれたように、そんな時代であった。海軍軍医として入隊するためにそれまでの写真や日記を整理しておいたのだが、その五十年前の日記から四谷道場の生活を抜き書きしておこうと思う。
「紀元は二千六百年」と当時いわれていたが、日記にも「紀元二六00年」とあり、その年の十二月から始まっていた。一九四0年昭和十五年医学部一年の時から卒業までの四年間の日記であった。
紀元二六0一年(一九四一年・昭和十六年)
一月二日
一時 四谷道場 射初会 ミカン持参
中鉢、鍋島、大鳥先生を初めとして、西尾、松尾、吉岡、前田、市川の諸君が集まる。
中鉢先生「震災の時は私は小児科・耳鼻科を一人で引き受けた。今出征で人手が足りないといっているが、その当時にくらべれば多いくらいですよ」
一月十三日
午前五時 四谷道場の寒稽古へ行くために起きる。今日は特別寒い。月は西にしずまんとして黄色い。古川橋折り返しの電車で六時すこし前道場に着いた。まだ誰も来ていない。こごえる手で火をおこす。大鳥先生、友さん、田宮先生つづいて来る。
一月十四日
今日も一番のりをやった。大鳥先生がすこし遅れて来て、巡査に不審尋問されたので遅れたとか、大むくれであった。
一月十九日
寒稽古最終日 一番のりをしてやろうと四時半に目覚しをかけておいたが鳴らなくて六時まで寝過ごしてしまった。おかげで当番が遅れて田宮先生にお手数をかけてしまった。
最後の廿射をおえて、恒例のブタ汁(本当は牛)に別館のレコ−ドにうっとりとよい気持ちになる。
桂先生の礼射で納会を始めた。十二射六中 熱戦をえんじて四等にくいこむ。金的は三回やってもおちず、とりやめになる。
二月十一日
友さんを送る会
三時といっても四時から始まった。桂先生がわざわざお見えになって礼射をしてくださった。友さん最後の礼射(最初で最後か)乙矢かじりつく。
六時から会場を長野屋へうつす。中鉢、松林、大鳥、吉川の諸先生もいらして最初に寒稽古の木盃を授与された。久保さんの送別の辞についで友さんの答辞があった。「僕はね 学校をでてもすぐ先生とかいわれて学生とはなれてしまうのがいやなんだ。いつまでも西尾の友さんでいいんだ」
五月四日
対商大戦に敗けた後四谷の長野屋で本科新入生歓迎会をやった。
九月十六日
授業のあとすぐ道場へ。四年生がこの十二月に卒業予定のため試験がたてつづけにあるため、おおあわて。
十二月八日
対英米宣戦
警報の内に二千六百二年(一九四二年・昭和十七年)へ
一月二日
午後二時 射初会に四谷へ出かける。
大岩・吉岡君といつもながら大鳥先生がお出かけになる。先生の足が道場へ向かっている間は弓術部は安定である。しかしそれをおしたてていかなければならないのは部員である。あと二年の部の生活を充分思い残す所なくやりとげていきたいものである。各人各様の礼射をする。
午後になって雲がでて冬らしい天気となる。空襲にそなえて気象通報がないのでこれからは感を働かさねばならない。
一月十二日
五時半起床 いくらか明るくなったかなと思われる道を道場へ急ぐ。
今日から寒稽古である。すでに電気がついていて吉岡君大鳥先生五十嵐君が来ていた。そんなに寒さを感じないが炭火は暖かい。夜が白々明けて空に残る三ケ月に朝の警戒飛行機が翼をならべて飛んで行くのは戦時下らしい気分がする。このへんが例年の寒稽古と違った所であろう。
一月十三日
昼休み道場で丼をかこんで、四先輩(久保・丹羽・松尾・中尾)の壮行会を行う。ほんのそまつなものではあるが心からの祝宴である。宮城遥拝、君が代を唱える。
授業をさぼって話を道場にさかせる。久保さんの話「山本さんが航空兵の訓練で死んだ人達の名前をかくしにいつも持っていて、誰かがなにかいうと、これがしょうちしないぞという」だまって酒をのむ長官の話は気持ちがすっとした話だ。
一月十八日
昨日からの約束により寒稽古一番乗りの競争である。天現寺から一番にのってきて道場をみれば真っ暗。これはしめたと思い近づくとこはいかに大鳥先生のあの笑い声が”エツヘツヘ”と聞こえる。先生得意の場面であった。それにつづいて二人三人ばたばたとたどりつく。
恒例の中鉢先生の御馳走のブタ汁を朝食に、そのあと納会。十二射の競射をやる。一等林さん。金的野間君。
二月三日
本日福沢先生の墓参りの為十時限り
弓をすこしひっぱる。杉本君に碁の手ほどきをされる。フウリンでやる。死とか生きるがぴんとこない。大鳥先生をさそって白金のお墓へゆく。毎年相変わらず路に雪が見えている。三人を家によんでレコ−ドを楽しむ。第六から第五へ。針が飛んでしまう位だ。ブランデンブルグに興ずるうちにすしが出る。おつゆが出て麻雀に話がうつり、杉本君に一つ教え込む事とする。それから十時近くまで三角麻雀をつづけた。
三月二十二日
日吉で三校の遠的があった。白衣の有志も今度参加されて来ていた。案じられた天気もよくすこし風が強かったが一日照りつづいた。
M:K:W (367:363:353)
四月二十九日
新入部員歓迎会・小柴先輩帰還歓迎会
正0時より桂先生の礼射で始まった。会するもの三十数名。道場もところせまし床の上で昼食をとる。
桂先生「何もいうことはありませんが、どうぞこれからづっと卒業までつづけていかれんことを」
松林先生「顔の知った人がへるのでさびれたと思っていたが、きょうの様子をみるとうれしい」
前謙「いろんな意味で部を利用して学生生活を楽しまれんことを」
−−−−大久保君、小川君、磯前君、飯田君、杉本君らの話あり。
僕は軍神に四/五分身を入れた名をかたり、いつまでも弓をひきたい気持ちをもちつづけられたこと、皆がせおってゆく気持ちがあれば将来部も盛んになって行くであろうと結んだ。
丁度中尾さんが来られて一緒に四谷三河屋から築地に送った。
五月二十四日
対農大戦 例の割引切符を用いるために日吉へ九時集合。
柳、小川、佐々木、杉本、前田、野間、磯前、五十嵐。
観戦 大鳥先生、大岩、吉岡、市川。
七九対六七で勝たしてもらった様な試合であった。僕はめずらしく十五で最高的中であった。まがりなりにも勝つことは嬉しい。農大に勝ったのも久しぶりのことで試合帳では二番目の事だ。今日は敵の不調にのって勝ったようなものだ。
五月三十一日
いよいよ来た三校戦である。八時集合し掃除をすませたところへ早や九時慈恵来たり、ついで千葉軍来場す。いささかわが軍気をつかれあわて気味になった。正十時カップ返還式から試合開始す。
−−−−−前田、大岩、磯前、五十嵐 必死の努力に九本と差がつきこれならと思わず涙がでたほどであった。
慶応八四、慈恵八一、千葉七四とカップ出来てより初めての羽わけ以上の戦いで勝利を得た。
終って三田のエビスにうつり懇親会を開催する。慶応方皆立っていわく「本日ははなはだ愉快なり」と。
六月二十一日
対商大戦 於国立
七月十九日
夏休みにはいる。昨日赤倉への出発の準備に四谷道場から上野へ行く。長物おことわりといわれたがこちらもまけずに頑張り通し遂に弓をあずけることにする。おまけに八月一日からは列車内にも持ち込めなくなるとのこと。
ここで「赤倉合宿の数え歌」「妙高登山大鳥先生に捧げるの歌」がある。
八月二十三日
三四会弓術部の送別射会を四谷道場で行う。休みをおわってすぐのことだし、合宿以来初めて会う顔があって話題は赤倉のこと。僕のもっていった写真がそれをさらにあおって合宿の楽しい思い出はよみがえった。大谷先生から西瓜を御馳走になり、二時から始まる。桂先生の礼射。卒業生五十嵐、磯前、大岩、林君の礼射。続いて競射にうつる。
ひとまず射会をおえ会場を「いろは」にうつす。
送別の辞「つい先だって松尾さん達を送ったと思ったらまた今度四人の諸兄をここに送ることになりました。−−非常にさびしい−−−戦時下に優秀な諸兄をおくり−−−部のほこり−−−六月の短縮がきまって−−−三校の優勝は一生の思い出に−−−」
九月二十二日
午後道場へ行って弓を引こうと思っていたら雨がふりだしたので、本だなをかたずけていたら、道場開きの記念帳がでてきた。普通部時代の僕の名前がのっていたのにはなつかしかった。
十月四日
百射会 集まる者十七名 八・五0から六・二0までつづく。
一等七三中杉本君
十一月十五日
風寒し 昨夜来の雨晴れたが風は冷たく冬を思わせる。
学習院主催大学高等団体競射大会当日である。八時半に道場に集合し、予科の者に先発してもらって十時受付締切に間に合うようにする。丁度先に大鳥先生市川君が行っていたのでそこはうまくやってくれて三十八番目にはさまってひくことになる。
優勝!
午後六時 優勝状 優勝弓 目録 写真帳 記念品をそれぞれ授与される。
夕食を共にし、道場に帰って神棚に拝礼、つれだって吉岡君の家へおしかけ、レコ−ド、果物、ビ−ルに今日の幸いを楽しんだ。
二千六百三年(一九四三年・昭和十八年)
一月十五日
五時起床 寒稽古をすませて、大久保へ射撃に行く。
一月十七日
寒稽古納会 八射五中 二等
五月三十日
三校戦(千葉不参加) 於久ケ原慈恵道場
八時半集合に全員定刻内に到着。慈恵大一名不足で七対八で行う。
この際七人づつにすることであったが、とにかく決めた所にしたがった。学生として最後の試合に思う存分引けなかったことは残念であった。大穴が自分だけ、四年が自分だけ。下の者がそれぞれ自信をもってあてているのを見て、今日の勝敗は別としてまかせてよいと思った。人にまかせたら一口も干渉しないこと、信頼してよいと思う。
七月十七日
三四会弓術部送別射会および送別会
桂、大鳥、小柴先生がおみえになり、予科一年から競射をやる。
ようやく自分の礼射の順になればその気分はまた格別。眞黒くすいとられるようなあずちの中に礼射的の中央の白はくっきりと目をいる。
送別会は「いろは」で七時半頃まで先輩への寄書きを書きながらまたされる。
小川君の挨拶「親友・真友・心の友としていつまでも私の胸にのこるでありましょう。」
自分の挨拶「思いおこせば長いことで−−−慶応以外をしらず、弓術部以外をしらず−−これからは大いに頑張らなくてはならぬと思います。−−−ただいって置きたいことは−−一つは人の和であり一つは練習であります。」
杉本君「礼射をやるころになってようやく卒業するんだなと」
九月二十日
直亮壮行会会食
四谷弓の連中 大鳥先生、小川、柳、吉岡、野間、飯田、前田、市川、山脇、湯本、長井君ら参集。
母の努力により近ごろにない豪遊な料理に皆満腹の呈であった。
歌あわせなどして十一時すぎまで。
九月二十四日
いよいよ明日より築地に通うことになった。
長い学生生活に別れをつげ海軍軍人生活に入るのである。