衛生学教室のこと

 

 昭和20年6月19日当時青森市にあった青森医学専門学校において近藤正二先生によって初めて衛生学の講義が行われた。先生は東北大学医学部の衛生学の教授であったが、仙台から青森へ出張講義に来られた。

 衛生学教室初代の教授は高橋英次先生で、南方の戦地で青森市に医専ができたことを知ったということをお聞きしたことがある。復員後またその学校に東北大学での同級生の山本耕一先生や松永藤雄先生がいることを知って近藤先生に医専の教授へ推薦してもらったとも話しておられた。22年2月14日が高橋先生の文部教官としての発令のあった日で、着任は4月16日であった。それは丁度青森市から弘前医科大学として弘前市へ移転をしていた時期であり、基礎医学校舎となった旧朝陽小学校の当直室に他の先生方と雑魚寝をしたことが医学部30年史に書かれている。

伊藤・成田・佐々木・高橋・柴垣(昭和30年・図書館前)

 昭和46年になって衛生学開講満25年になった機会に同門の者が集まって記念事業を計画した。その一つに25年誌を作ったのだが、その中に「弘前における保健活動の人脈と青森医専誕生まで」「近藤教授の集中講義と高橋教授の着任まで」について詳しく述べられている。

 そのあとがきに「毎日毎日が歴史である。とこの25年誌をつくってみて、つくづく思うのである」と書いた。

高橋英次・近藤正二・佐々木直亮(昭和46年6月)

 青森市に医専が誕生して50年その中で衛生学教室は何をしてきたか、また31年に教授になり61年に停年退官になった自分は何をしてきたか思うのである。

 「衛生学はその本質からいって教育・研究にとどまることなく広く地域社会との接点において問題をとらえ、社会に奉仕する責任をおっているものと考える」と書いた。

 そして教授になったとき教室の運営についてこの3つの柱と保健所との関係について考えた。そしてこれには新しく教室を発展させていくための希望が入っているとも書いた。むしろ自分自身をむちうつことになりそうだとも書いた。

 それから30年あっと言う間に過ぎていった。

 表通りは高橋先生から引き継いた「弘前大学医学部衛生学教室業績集」の第2巻から12巻までを出すことができた。

 その裏通りは「研究うらばなし」として退官記念講演のときの話に、また「衛生の旅」Part 4までに述べた。

 趣味と研究を兼ねて撮った写真は「衛生学教室のアルバム」として100冊をこえたが、その中のいくつかは鵬桜会報に連載し、また日本民族衛生学会を弘前で開催したとき「人々と生活と」という写真集として出すことができた。

 また古いラジオ時代からの放送とか講演を記録した「衛生学教室の録音テ−プ」もあり、大学のこと医学部のことまた地域の保健関係の記事がのった新聞の切抜き帳も我が家と学校の倉庫に埋もれている。

 高橋先生が昭和22年から書き始めた「教室日誌」はその後教室関係者によって引き継がれた。昭和42年3月新校舎の6階に教室が移転した機会に教室員のお互いの連絡を深めるために発行することになった「教室ニュ−ス」は第75号まではもっぱら私が原稿を書いてタイプしたのだが、今になってみるとその中に「毎日毎日の教室の歴史」が語られていると思う。

 昭和28年から60年までの弘前大学保健医学研究会の記録を「明日の健康を求めて」としてまとめることができた。これは高橋先生が衛生学教室を地域の保健活動をする学生諸君のために解放し世話をされたこと以来の積み重ねがあったからで、青森県内の保健活動の歴史を語る上で貴重な資料となろう。

 公衆衛生学教室が誕生する前からの青森県内唯一つの「健康」に関する衛生学教室であったので、それなりに責任を感じていたのだが、昭和34年公衆衛生学教室ができて中村正教授が着任されてからは、社会的奉仕としての産業衛生とか労働衛生とかいわれる部門は先生におまかせすることにし、また昭和41年に養護教諭養成施設の教授として武田壤寿助教授が転出することが決ってからは学校保健は一切そちらにおまかせすることができて、地域保健に力をそそぐことができた。 この30年間にやってきた研究を一言でいうなら、東北地方住民の脳卒中・高血圧の予防に関する研究で、内容としては「血圧論」による「疫学的研究」の展開であった。業績集に掲載されている研究論文とは別に、「りんごと健康」「食塩と健康」(共に第一出版)を出すことができた。

 人とテ−マに恵まれた半生であった。

  (弘前大学医学部五十年史,639-641, 1994.11.30.)

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