コス島への旅

 

 ギリシャの空は雲ひとつなく晴れ、エ−ゲ海はどこまでもあおく、船はエンジンの音をひびかせながら、静かな海を南へと下っていった。そばには白いヨットが進み、はげ山のような島をつぎつぎとあとにしていった。この船はアテネの外港のピレウスを午後1時に出帆、ロ−ドス島へ向かっていた。私は翌朝3時にコス島へおりる予定だった。

The unknown paradise island of Cos, Greece. It's a viking tour.という観光案内につられたのではない。コス島、そこにはヒポクラテスが2000年前に医術をおこなったというアスクレピオスの神殿のあとがあり、またそこの博物館にあるというハイジエイヤの像をみることが、私のヨ−ロッパでの最後の目的であった。アメリカからヨ−ロッパ各国をまわり私のヨ−ロッパ旅行はここが最後だ。あさって空路カイロへとばなければならない。

 パリ・ロ−マにいたとき、ギリシャの旅行会社の事務所をおとずれ、コス島の資料を得ようとしたが、なにひとつ手に入らなかった。さがしかたが悪かったのかもしれない。わかったことは、週2回国内航空が島へとぶこと。しかしその曜日が私の予定にあわない。島巡りの観光船、これもレジャ−専門で金と時間がかかりすぎる。一つ定期のロ−ドス島行きの船があるのをみつけることができた。予定によれば火曜日午後1時ピレウス出帆、翌水曜の午前3時コス島へより、おり返してその日の午後4時半にコス島へより、翌水曜午前6時ピレウスにつく。これだ、これしかない。これにのればアテネからの夕方のカイロ行きの飛行機に間にあう。本当にあとにひけぬ旅となった。

 とにかく港の船会社の事務所で切符を買った。あとでわかったことなのだが、この切符は甲板にねる、何枚でも発行する切符だった。キャビンの切符は皆売り切れで満員だった。ドラのなる中を、タラップ最後の客としてとびのったのである。

 甲板にはギリシャの兵隊さんがたくさんのっていた。彼らの人なつこさに私もゆかいな旅をつづけることができた。日本製のカメラ・トラジスタ−ラジオ、そして明朝ねすごしてはいけないと取り出した目覚時計など、ほしそうな彼らの目の集中するところになった。夜のとばりが甲板におりる頃、とても冷えきってきた。彼らは私に毛布を貸してくれた。その温情に感謝をし、甲板のボ−トのかげにうずくまってねながら、20年前の戦争中のことなど思い出していた。

 夜中、とつぜんゆりうごかされ目をさました。私が日本からきたドクタ−だということを聞き覚えていた船員が、急病人が出たからみてくれという。幸いにたいしたことはなかった。このできごとは、コス島での見物、そして帰りの船での待遇におおいに関係するところになった。

 コス島にはハシケであがる。空がすこし白みかけてきた午前3時、小舟にゆられて島についたのである。

 港の待合室といったものは、街の木陰である。そこに皆椅子をならべ、この朝早くから、出迎えの人、来た人、皆ここで朝のコ−ヒ−を飲むのである。

 何時間すわっているのであろう。誰もたちさろうとはしないで話をしている。昨夜の患者を含め、出迎えの一族のひとたちが私の椅子のそばにやってくる。このコ−ヒ−をおごらせてくれという。そして若者は今夜ぜひこの島にとまっていかないかという。おもしろいキャバレ−を案内しよう。

 もし時間がゆるすなら私もこの島で一夜をおくりたい。だがカイロからのあとの南まわりのスケジュ−ルはちよっとの変更もゆるさないようにつまり、8月12日には羽田につかなけれならない。

 ”rush travelだ!”ととなりにすわっていた北アイルランドからきた青年がいった。彼はこのギリシャの天気と太陽がお気に入りなのである。

 午前8時頃、すみきった朝の空気をすいながら山の中腹にあるアスクレオピオンの神殿へ足をむけた。ハイヤ−をとばせばすぐだという。急ぐことはない。天気は上々。2000年前に時代にもどろう。人一人いない朝の街を一歩一歩上へのぼる。白い土壁の家の中から誰かがみているようである。そのだれもが、”あれは日本からきたドクタ−だ”とささやきあっているように。昨夜の船の中のできごとがもう島全体につたわってしまったというような気分である。

 なだらかな山である。あおい海からどこが境界線ということなしに、ただおだやかな丘がはげ山の頂上につづいていた。

 道のそばには大理石の柱の遺跡がごろごろしていた。昔のマ−ケットの跡という。ロバの背にのった農夫がゆく。道ばたでせんたくをする娘たちがふりむく。庭先で朝食をとる農夫の人たちがかきねごしにみる。日本と同じあさがおの花、サボテン、そしてフロリダでみたと同じ南国の赤い花。そんな部落を通りすぎた山の中腹に、アスクレピオンの神殿跡があったのである。

 こだちの中に規則正しく積み重ねられた白い階段がみえた。柱が何本か残っているだけである。

 ああ!ここで、2000年前に医術が行われていたのだ。

 神殿の上からのながめはまた格別だった。今朝おりた港のあおい海の向こうに、島々が遠くかすんでいた。

 階段をおりてきたところではじめてここの番人だという人にあった。彼はこの場所に25年間すわりつづけているのである。

 小屋があるわけではない。野天の椅子の腰をかけ、机の中から一冊のノ−トを出し、これにサインをしろという。

 ”オ−、お前は日本からきたドクタ−か。アメリカやヨ−ロッパのドクタ−たちはたくさんくる。日本からはほとんどこない。お前は今年はじめての日本人だ”と彼は英語で話しかけてきた。

 ”あのあそこの水は、2000年来でているoriginalの水だ”

 もちろん彼はそのことを証明することはできない。だがそれが真実に思えるのだ。私もそれを口に含めることができた。

 小さな町の真中の広場に、白い博物館があった。小さな博物館だが案内人がつきtourをやる。勝手にはみせてくれない。まずヒポクラテスの像。これは自由に写真をとらせてくれた。

 どこにハイジエイヤの像があるのか。彼女はどこか。その像をみたとき、私の目的は達した。その像をみながら、先年弘前で衛生学会が開かれ、その学会長の挨拶の中でハイジエイヤについてのべたことを思い出していた。ハイジエイヤが医の神アスクレピオスの娘というのではなく、理性に従って生活するかぎり元気にすごせるのだという信仰をあらわし、ギリシャの背景にある思想、そして現代の思想、あまりにも断層がありすぎはしないか。ある人はギリシャの文明は現代につづいていないといった。またギリシャに帰れともいう。

 私は彼女の像をみたことに満足した。案内人はこの像は写真にとっては絶対にいけないという。では絵葉書はないだろうか。この像の写真は世の中に1枚もないという。そのきびしさに私はあきらめて外に出てきた。幸いなことに、外の格子の間から、彼女の像がみえるではないか。私は思わずズ−ムを最大限に利用してシャッタ−をおした。もし彼の言葉が本当なら、この写真は唯一のものなのだが。

 ヒポクラテスのスズカケの木といわれている大木があった。ヒポクラテスはこの木の下ですわり、瞑想したといわれる。

 私も、帰りの船がくるまで、ここでひるねをとることにした。1年の留学もおわろうとしている。そして最後のしめくくりをこの土地でつけることができたことに満足していた。

 ギリシャの真夏の太陽はきびしい。誰一人日なたにはいない。だが街の木陰に椅子をだして、そよ風にふかれながら時のすぎるのも忘れきって話をしている。快感とはこんな感じをいうのであろうか。その要因は何か。衛生学の初歩に感覚温度というのがある。温度・湿度。気流のくみあわせ。そんな要因であらわされる快感とは一つ次元の違う快感なのではないか。

 私には空気がきわめて”dry ”なことに原因があるように思えてならなかった。アメリカ、ヨ−ロッパ、いたるところ" dry ”を経験した。日本に帰国して再認識したのだが、日本は雨が多い。きわめて”wet”なのである。そしてこの”dry-wet”が人間の生活の基本的条件の一つであり、またものの考え方をもきめているように思えてならない。

 その快感を本当にはだで感じ、私はそよ風にふかれながら、スズカケの木の下で夏の午睡をとったのである。

 衛生学者はいろいろな人たちの生活を知らなければならない。また実際に自分が体験しなければならない。私にとって今回の旅行はその意味で貴重なものだったと思う。だが私が見聞きしたことだけの話である。一つの症例にすぎないと思う。症例のつみかさねだけで全体を知ることにはならない。私は疫学者なのだ。その意味から症例報告はしたくなかった。そしてまた自分が考え、決め、そして発見し、体験してこそ、よろこびが大きいものだと思う。”おどろくうちにはたのしみがある”。私はそのおどろきを、たのしみを他人からうばいたくなかった。そんな気持ちから旅の随筆を書く気はなかった。こんな話を原島進先生の前でしたとき、”でも君、君も他人に知らせる必要があるよ”と。

 随想は私の心のうごきを活字にのこし得たことを、いつか感謝する時がくるだろう。

(公衆衛生,32,225−227,昭43)

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