Dr.Meneelyとマンモスとタイガ−と

 

 Dr.Meneely のことはあまり日本には知られていない。彼はまだ日本に来たことはないし、論文の数も多いとはいえない。ただ私がかって高血圧とりんごの関係に興味をもち、文献をあさりはじめたとき、彼の慢性食塩中毒の実験を知り、それに対するKの保護作用というアイデイアを証明した実験報告を図書館でみたときには、うれしかったと同時に実際にはすこし残念だったのだ。なぜなら、食塩の中毒に対する他のミネラルの影響をみるために、彼と同じような実験をやってみたいと思いついた時だったからである。

 それから何年経っただろう。彼がこれらの実験をやったTennessee のNashvilleにはもういない。今はHouston のMedical Center の中にあるAnderson Hospital and Tumor Instituteにいるのである。

 1965年10月、マイアミで開かれた全米心臓病学会に出席のあと、ニュ−オリンズでデキシ−ランド・ジャズを楽しみ、バス旅行でヒュ−ストンについたのは10月20日であった。まず目につくEsso-Encoの会社のビル、街には気取った男女が歩いている。そして昼食にもネクタイは欠かせない。

 多分彼に違いないと思った車が近づいてきた。黒ぬりのキャデイラックから大柄の人がおりてきた。まさにTexasである。すぐ彼の研究室へ案内された。今は心肺機能の検査をおもにやっており、つぎつぎと出てくるデ−タ−に目を通し、所見を書いてサインするのが主な仕事である。実験室にはショ−ランダ−のガス分析器などがあり、以前私がCOの実験をやっていた頃のことなどちょっと思い出された。だが私のおもな目的は別にある。彼がなぜ慢性食塩中毒の実験をやったのかだ。

 Dr.Meneelyの部屋には、マンモスとタイガ−の像がかざられていた。私にはその意味がすぐわかった。論文でみおぼえのある像なのである。

TennesseのNashvilleにいた頃、彼はAnnals of Internal Medicine Vol.47,1957に”Chronic sodium chloride toxicity:the protective effect of added potassium chloride”という論文を発表した。

・・・If a saber-toothed tiger encountered a wooly mammoth apt with his tusks he might come out of the affair with a real "Saturday night" set of contusion , lacerations and fractres. He would lie where he fell, or at best nearby where he could crawl. Whether he lived or died would then depend entirely upon the phsiologic resources built into him for the emergency by eons of evolution due to the fact that nursing service was so poor for saber-toothed tigers. While on the one hand he would not be roused from his sleep at five to be bathed, and then wait three hours for breakfast, and thus by some would be considered blessed to die in pease, yet neither would food and water be given to him. He would have to start at once on a diet of saber-toothed tiger meat, and this, mind you without water. As he digested himself kilogram by kilogram a growing awareness of a new kind of problem would dawn upon his kidneys,・・・

 

 ひとあたり話がすんだあと、彼は論文のしまってある倉庫へつれていった。ファイルされた棚から、これもあげようとたくさんの文献をくれた。その大部分はすでに目を通したことのあるものであったが、”これはfirst publicationだよ”といって渡されたのは一葉の抄録用紙であった。

 ”Renal damage in rats fed large quantities of sodium chroride”と表題にあった。下に発表先としてProc.Am.Soc.Clin.Invest.,J.Clin.Invest.31:650,1952.と書いてあった。例の食塩を2.8,5.6,7.0,8.4そして 9.8%とそれぞれあたえた動物実験の最初の報告であろう。

 これらの実験は1年前にはじめられ、つづいて塩化カリを食餌に加えた実験に移っている。これが1953年。われわれが東北農村で高血圧の研究をはじめたのが1954年。そしてはじめて高血圧とりんごとの関係を、Na/K比という形で発表したのが1956年であった。

 部屋にもどり、持参した図表を手に私の仕事の説明をはじめた。彼はわれわれの仕事は十分知っていなかった。アメリカ国内で発表されている2,3の重要な文献も知らなかった。だからわれわれのやったりんごの野外実験とか、高血圧と尿Na/K比との関係の仕事はことにほか大喜びであった。”こんな所見は世界ではじめててだ”といった。おせいじではない。事実他になかったのだから。

 Dr.Meneelyはいま実際に食塩中毒の実験をやってはいなかった。だが彼の心にはやはりTennesseeでやった食塩と高血圧についての仕事に一種の郷愁があるようだ。そしてまた機会があればその仕事をつづけたいともいっていた。

 年があけて1966年1月に、シカゴでA.H.A.の動脈硬化と高血圧の会があったとき、彼は出席していた。学会の懇親会の会場となったクラブのバ−で、マルチ−ニを手に彼は、私の肩に大きな手でだきながら、他の人たちに私のことをこういって紹介してくれた。

 「アメリカの連中は私の仕事のことをちっとも信じてくれないんだが、この日本から来たドクタ−・ササキは私のことを信じてくれる」と。

 一日中彼の部屋に腰をおいて、仕事ぶりをながめ話をし、午後5時になった。

 「サ−君、ヨットにゆこうではないか」彼は、ヒュ−ストンのヨットクラブの会員なのである。同じ研究者の若いドクタ−を助手に、3人でフリ−ウエイをとばした。Golveston Bay でnight sailを楽しもうというのである。

 まっくらな夜の海、快い風、1時間のセイルのあと、クラブの2階でたべたsea foodの味、これらはよい思い出となった。

 大きなからだで、抱きかかえるように、小さな日本人をうしろからかばいながら、ドア−は必ず先にあけてくれた彼。Medical CenterのDoctors clubでの昼食のとき、サンドイッチを注文したのに、、パンは形だけ、大きなステ−キに目をまわした私が「Texasはなんでも大きいね」とじょうだんをいったら、肩をすぼめて目をすぼめ目を細くしてわらった彼。Dr.Meneelyは、Naの中毒、そしてKとの関係がいわれるたびに顔を出すことだろう。

(公衆衛生,31,228−229,昭42)

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