先日津軽のユ−モアの中に、「どサ」「ゆサ」というゆかいな例が紹介されていた。「どこへゆく?」「おゆへゆくよ」の意味をあらわすことばとして、まことにゆかいな話だ。
「たばこやの前に立って、手を出して、”ケ”といえば、すきなたばこが手にはいる、こんな便利なところはないですね」とは、東京から新しくきた教授の話。
私も先日、ある医学雑誌に「あたった話」を紹介しておいた。
何が「あたった」んだ、主語がないと聞くのはやぼのこと。「家の人があたったからきてください」といって往診をたのみ「やっぱりあたりでしたか」となっとくする、この病気の本体は何か。
いまから2000年も前、医学の祖といわれるヒポクラテスのいたギリシャに「アポプレキシア」という言葉があった。「アポプレキシア」とは、突然に意識を失って倒れ、運動マヒをおこし、手や足がきかなくなり、いわば打ちのめされた状態になる、という言葉で、医学を学ぶ者は、「アポった」とよくいうが、これが「あたり」にあたる。
そしてヒポクラテスが書いているように、「健康者がにわかに頭痛をおこし、言葉を失い、いびきをかくとき7日以内に死ぬ」「重症の卒中発作は治療不可能だ」「季節の変化は病をおこすことが多い。同じ季節でも、寒暑の激変あるときは病を生ぜしめる」といった記録があるのは、いまもなお「あたり」にいえることなのだ。
この地方でいう「あたった」にもいろいろあって、「びしっとあたった」「どたっとあたった」「ぼんとあたった」というのを聞けば、まったくその症状が目にみえるようだ。
といって、笑ってばかりはいられません。専門的には、「中枢神経系の血管損傷」ひらたくいえば脳卒中で、最近全国で1年間に実に16万人の方が亡くなっている。この青森県でも昭和37年, 2532人が「あたって」死んだ。そしてとくに若い働き盛りに「あたり」が多いことが、東北地方の特徴で、青森県内で60歳前で亡くなる方は、毎年500人もいることを忘れてはならない。
犬が人にかみついてもニュ−スにはならないが、人が犬にかみつけばニュ−スになるという。もしテレビのニュ−ス速報で、この「あたり」を出すとしたら、3分16秒に1回の割で、「だれだれさんは、あたって死にました」と出さなければならない。
大昔からこの地方にいいつがれてきたことばのかげに、多くの「あたって」なくなった方の魂がかくされている。ニュ−スにならないこの「あたり」が私には大問題だと考える。
「あたり」は実は脳の血管の病気で、脳卒中とは、「あたり」の症状を総称した名前。だから「あたった」といっても、医学的にはこれをさらにくわしく診断して、治療してゆくことが必要になる。最近の分類にしたがってこの地方の「あたり」をみると、大半は頭蓋内出血としての脳出血と脳コウソクの中の脳血センで、あとは、クモ膜下出血、脳センソク、高血圧脳症など、このへんはお医者さんにまかせておこう。
親が「あたった」から、自分もその年になると死ぬという「あたりまき」でかたずけてしまうのは早すぎる。
同じ日本人でありながら、地域によって「あたり」の割合が違ったり、戦時中から戦後にかけて「あたり」が減ったり、夏は「あたり」が少なく、冬多い。生活の仕方を変えることによって、脳卒中を少なくする可能性を示す証拠があるということ。そこでこれから次の順で、脳卒中やそのもとになる高血圧のことを書いてゆく予定である。
「かすった話」「こたつと高血圧」「冷蔵庫と高血圧」「リンゴと高血圧」「長生きのひけつ」どうかよろしく。