健康随想 -1-

 

 最近手元に一冊の本がとどいた。 題は”社会医学への入門”。 著者は老年医学会総会へ招待されたことのあるイギリスの社会医学のマッキ−オン 教授である。

 彼の顔を思いうかべながら目を通してゆくうちに、ある章に興味をひかれることになった。

 それは、むずかしい社会保障の理論ではない。過去のイギリス人がどんな健康問題をもち、それがどう変わっていったか、今の問題は何か、それにたちむかう手段は何か、というごくあたりまえのことについて述べられていたことなのである。

 その手段のうちの一つに、”たべすぎ”を警告した章があったのだ。

 社会医学と”たべすぎ”。、このとりあわせ、関連を理解するには、よほど頭をやわらかくしてかからねばならないだろう。

 問題はこうなのである。

 過去から現在にかけて、イギリス人の疾病像は変化し、今や彼らのもつ重大な健康問題は、人々の日常の生活・態度・習慣と関係している心臓・血管系の疾病が大半をしめているというのである。だからそれに対する手段のうち、個人的なやり方としては、その人の習慣を良い方向へ修正していかなければならないということである。

 タバコ・アルコ−ルを慎み、適度に運動をし、そして”たべすぎ”を警告している。

”たべすぎ”その結果の太りすぎ、そして短い命。

 日本はどうであろう。”やあ太って元気そうだね””うちの人は太ってかんろくができた”がよろこばれ、”すこしやせましたね”が失礼な言葉になる。こんな挨拶は結核や栄養失調の多かった時代の過去の言葉にならなくてはいけない。

 20歳代の体つきをいつまでも−−−これは健康維持のひけつの一つなのである。

(青銀会会報,2,8,昭43.4.)

 

健康随想 -2-

 

 先日碇ヶ関で黎明郷リハビリテ−ション病院の竣工落成式が行われた。

 リハビリテ−ションという言葉が日本に入ってきてまだ日があさいにもかかわらず、とにかくそれを専門にめざす病院が本県にできたことはうれしいことである。

 昭和36年11月といえば今からざっと7年前だが、寿命学研究会の渡辺定先生が火つけ役になって、日本ではじめて脳卒中の予防・治療およびリハビリテ−ションのシンポジウムが開かれている。その時はわざわざリハビリテ−ションの権威のダッショ博士をアメリカからよび私も予防の面でしゃべったものである。

 ”・・・・最近、予防医学の5つのレベルと申しまして、健康増進・特殊予防・早期発見即刻治療・後遺症防止、そしてリハビリテ−ションのこと、本日の題を全部含む意味に予防医学を考えられるようになっていますが、・・・・一体脳卒中について、どういう問題があるでしょう・・・。

 ”・・・・脳卒中が国民死亡の死亡原因の第1位であるとか、あるいは対象の患者が増加してきた・・いわゆるお客さんが増してきた・・から問題があるとは考えないのであります。・・脳卒中による働き盛りの方の死亡を老年層にまでおいやり、働き盛りの方の生命を保護し、そして生産をあげるまたその人たちの死亡からくる種々の社会的な不健康状態を除くことが、現在、私は問題だと考えて、ここに公衆衛生的な問題の価値があるお考えるのであります・・・と述べている。

 この考え方は今も変わっていないし、医療の経済効果から重要な考え方であると思っている。とくに東北地方を考えるとき働き盛りの方の脳卒中の問題は深刻である。その上日本の人口の老年化は進んで、脳卒中にあたる可能性のある方はあとをたたないのが現実なのだ。私たちの脳卒中についての生態学的な理論に従えば、同じ生活をし、そこに生まれ育った人は同じ運命をたどるものと考えられるのである。そして積極的によい方へ生活を変化させていかなければならないのだ。

 祝辞にたった竹内俊吉知事は”私もいつかこのような病院にやっかいになるかもしれない”とおっしゃった。それを受けて最後にしめくくられた佐藤煕医学部長は”このような病院ができたからといって安心してはこまります。益々養生してこのような病院のごやっかいにならないようにして戴きたい”と。

 人一倍健康に留意し、時々ドック入りをされる知事さんのことをさすのではない。大酒をのみ、タバコをふかし、それでいて体をこわせば治してくれという。肺ガンになってもよいからタバコはやめません、それを治す薬を発見してくれという。とかく人間とは勝手な生物なのである。

(青銀会会報,3.8.昭43.6.)

 

健康随想 -3-

 

 日本人の平均寿命が昭和42年度に、男68.91歳、女 74.15歳で、寿命は年々順調にのびてきていると発表された。正に西欧長寿国なみになってきたことで、おめでたいことではあるが、この数値だけで、手ばなしによろこんではいられない。

 昔の平均寿命は40歳とか50歳で今70歳になったので、中年以上の方が自分もその仲間入りしたように考えて、20年も30年も昔とくらべて長生きできると考える人がいたら、平均寿命の計算をしらない、これまたおめでたい人であるし、多くの新聞の論説にのべられているように、このことからすぐ定年延長問題へすりかえを行うことも当を得た話ではない。

 平均寿命は、性別、年齢別の死亡率がもとになって計算されるものであるから、0歳の平均余命はのびたのだが、中年以上の方の平均余命は昔にくらべて数年延長したにすぎないのである。

 さらに人間が死ぬという事実は、それ自体厳粛なことではあるが、健康を目標として考えると、その中の一つの指標にすぎないと思われる。死亡の前の疾病の状況とか、潜伏している健康問題、さらに能力や環境条件や保健活動に向けられる努力などが、健康の指標と考えられるというのが現在の考え方である。

 かつてWHO・ILO・UNESCOといった国際機関の専門家が集まって、生活水準の指標を検討したことがあったが、その第一にあげられたことは健康であった。

 「青森県の民力」といった場合、それは生活水準と関係する指標を問題にすると思われるが、その中に健康が考えられるほで、まだ成長していない。

 平均寿命は延びたとはいえ、現実に疾病ははんらんし、環境条件はあまり改善されず、保健活動に向けられる努力はほとんどなされていない。銀行は医師が開業するといえば、充分の資金を貸してくれるし、医院の設計までしてくれる。医療費の何割かは国で保証され、その回収が確実ということであろう。疾病が経済生活のよりどころになっているのである。

 ここでかってある生命保険会社の研究助成金贈呈式によばれたとき、祝辞にたたれた小泉信三先生の言葉を思い出すのである。それは経済学者ミルの言葉を引用されたのであった。「墓堀の棺桶をつくる人は、人が死ぬことをつい考えてしまうものだ。生命保険会社が人の生命の延長のための研究助成金をだすことは、会社の繁栄につながることはいえ、その行為をほめないわけにはいかない」と。

 平均寿命の延長の数値にのみよいことなく、広く健康問題を考えたいものである。

(青銀会会報,5.8.昭43.10.)

 

健康随想 -4-

 

 先日ある医学雑誌に、”観光地の条件”と題して、短文を書いた。観光地についての必須の条件は、世界でただ一つのものがそこにあるということで、どこにでもあるといったものではいけない。そこにしかないものがあり、できれば何回みてもよいといったものがあることが必要ではないかと述べたのである。はたして青森県内にそれにあたるものあるだろうか。私はイタリヤのカリブ島の青の洞窟に比すべきものとして、まだあまり知られていない青池、自然美としての十二湖の青池をあげておいた。弘前公園の桜も恐山もその候補になろうが、日本的な青さをいつまでも気のおもむくままに楽しむことのできる青池を紹介しておいたのである。

 今年、下北半島が国定公園に指定されたこともあって、観光青森は大いに話題になった。だがいつも一緒に大きくとりあげられたことは、観光地のよごれ、ごみ処理の問題だった。風景は他に類のないものであっても、観光客に快感をあたえないようでは、これ又観光地の条件としては失格といわなければならない。そしてどの新聞もが、一様に観光客の道徳の低下を指摘していたことも印象的だった。

 一体日本の観光客は道徳が低いのであろうか。世界の名の通った観光地をおとずれる人たちの道徳が一段と高いとは私には思われない。心にくいばかりにととのったスイスの湖畔の公園にもたえず花壇の世話をする人がみられたし、ハワイのワイキキの海岸でも、そここことすてられる紙くずを次から次へとひろってあるくアルバイト学生の姿がみられた。

 人間の道徳にたよるより、一つ全然逆に人間とは、全く無精の、ものぐさな動物だときめてかかったらどんなものであろうか。

 一番しつけの良いのは幼稚園、・小学生の生徒であり、上級になるに従って悪くなり、そして一番頭の良い人間がもっともぬけ道を知っている。人間はこんな一面をもっている。

 だから観光地のよごれを問題にするとき、観光客の道徳の低下を訴えるより、一番無精な観光客のよごすものを次から次へとかたずける設備と人を用意すること。その費用は入場料という形で観光客個人が負担するか、その観光客から落ちる金で収入を得る地域の人たちの税金によるかは考え方のわかれるところであろうが、観光客の快感を確保するために、観光地をもつものは責任をもたなければならないと考えるのである。

(青銀会会報,6.8.昭43.12.)

 

健康随想 -5-

 

 冬と健康、冬と脳卒中、冬と高血圧。新聞は脳卒中の予防を書き、雑誌は高血圧の特集をやる。国や県は2月に成人病予防週間を行うのである。

 冬をはだで感じ、昔なら肺炎が冬の話題であったのに、今は循環器の病気が話の中心になる。

 私たちが昭和29年に東北地方住民の脳卒中や高血圧の予防の研究をはじめたとき、最初にぶつかったテ−マは、冬の室内の温度環境との関係についてであった。そしてここ東北の人々は重い衣服をつけ、世界中で一番寒い生活をしているのではないかということがわかたのである。いろりやこたつで冬の室温が摂氏0度といったところで生活している人の血圧は高く、スト−ブを長くつけている人の血圧は低いことがわかたのである。この研究はその後よく引用されることになった。

 その頃、ある労働組合の人から薪炭手当の合理化のための基礎的研究を依頼されたことがあった。この地方で冬適温で生活するにはどれだけ薪をたかなければ」ならないか。それは時価に換算すればいくらになるか。その研究の結果がでたためか、彼らは薪炭手当の増額をかちとったそうだ。

 そして今、この原稿を書いている医学部の6階の教授室では、窓越しに冬の雪景色をなあめ、Yシャツ一つでいられるのである。丁度数年前ミネソタ大学で一冬送ったときとほぼ同じように。そしてわが家も、ようやく、セミ・セントラル・ヒ−テイグになったのである。

 この東北地方では、まだ冬に乳児が肺炎で死亡し、脳卒中は冬に集中する。脳卒中の基礎になる血圧も、夏低く、冬高いという季節変動をくりかえしている。ところが、人の生活の中で、室内の温度環境を工学的にコントロ−ルすることを数十年前に成功したアメリカではも早やこのような現象はみられず、日本人の血圧が冬高くなるというデ−タを示してもなかなか分かってもらえなかったのである。

 大昔、気候温暖な地域に生まれた人間が、知恵によって冬の温度環境を制御していって人は北上し、、そしてヨ−ロッパの文化の花が咲き、円熟していったのである。その意味からいえば、ようやく適温に生活できるようになったこの東北の未来は楽しみである。

 しかし、一方では、もうこんどは、夏の砂漠を水と冷房でコントロ−ルすることによって、未来の文化を咲かせようとしているところも、この世の中にはあるのである。

(青銀会会報,7.10.昭44.4.)

 

健康随想 -6-

 

 北大の構内にあり、観光の名所でもあるクラ−ク博士の胸像の”Boys,be ambitious”が、白ペンキで”Boys,be revolutionary””少年よ革命的であれ”とぬりかえられたと報道された。

 一体”大志をいだけ”という言葉のあとに、”not for that evanescent thing which man call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be”という言葉がつづいているのを知っていたのであろうか。”大志”に酔い”革命”に酔ってしまったのではなかろうか。

 これに似た話がある。

 ”健全な肉体に、健全な精神が宿る”と、よくいわれ、体をよくすれば、頭もよくなるかのように考え、又そのような意味で、この言葉を語り、体育の必要性をのべる場合すらある。それは”宿る”という言葉を動詞として考えてしまっていることからくる誤解である。実は有名なこの言葉は、ロ−マの詩人ユベナルの”Orandum est ut sit mens sana in corpore sano”の文の意訳として伝えられたものといわれている。”宿る”といった動詞の意味でなく、人間の理想として健全な精神と健全な肉体をかね備えた人こそ望ましいという願いをこめていわれた言葉として理解すべきであろう。

 私たち、日本人は、言葉を自分に都合のよいように解釈し、言葉によってしまうようだ。 戦争中の話はもう古い。今は”革命”からはじまって、”封建的だ””民主的に””参加を”そして何でも”公害”にされ、”安全都市”は宣言され、”交通戦争”の中を”気をつけてね!”という言葉におくり出されるのである。

 一体何をどう気をつけたらよいのであろう。

 ”健康は一番大切なものだ”とよくいいながら何をやろうとしているのか。

 それより”肺ガンで死にたくないのならタバコをやめる””心臓病で死にたくないなら毎日きまった運動をする””胃ガンで死にたくないなら、何でもないときに検診をうける”といった、具体的に何をするかからはじまらなければならないと思うのである。

(青銀会会報,8,12,昭44.8.)

 

健康随想 -7-

 

 そろそろ就職のシ−ズンに入って、”青田がり”から”金の卵”が話題になる頃となった。年少労働力の不足から、本県の中卒にはあらゆる手がさしのべられ、”金の卵”がもとめられるのである。そしてまた集団就職をホ−ムで送る姿が3月にみられることであろう。

 以前”強い兵隊”として全国に名をうったこの東北が、今や出稼ぎや集団就職の基地としての姿を示している。

 出生率の高さをほこる青森県は、これからの日本の人口構成の推移からみて貴重な存在となるだろう。それでも、本県が日本一乳児死亡率が高いということはどうゆうことであろう。おとなりの岩手県の努力に先をこされたかっこうになってしまった。

 妊婦にさらしが配給され、3歳児検診から0歳児検診、乳児の10割給付と進んできており、医師会が提唱しはじめられた”赤ちゃん会議”も今年で4回を迎え、先日むつ市で開かれた。そこでも”子持ちの看護婦には保育所を!”といった声が強く出るほど、世の中のうごきを反映した発言は多かったが、それでも”物いわぬ嫁”の出席はほとんどなく、”とり上げばあさん”による無資格分娩の様子や、不潔な自宅分娩のための”すそかぜ”(産褥熱)に発熱する母親の実情を訴える土地の助産婦さんからの発言もあった。

 都会化し、主張の強いところに、次々と手がうたれるような世の中で、一体誰が取り残された人たちの世話をしなければならないのであろうか。医師は益々都会に集中し、おきわすれてゆく僻地ではある。

 それでいて、中学生が卒業する頃ともなれば、彼ら”金の卵”にあの手、この手がさしのべられるのである。中学生が”金の卵”なら、これからの日本の人口構成のうごきからみて、21世紀の日本の繁栄をささえる今の乳児は正に”ダイヤモンド”ではないだろうか。

 ところが、青森県内だけでも、あと12月までに約300の”ダイヤモンド”が失われることが予想されるのである。

(青銀会会報,9.10.昭44.11.)

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