「ちゅうぎ」にはいろいろなエピソ−ドがある。
今は90歳をこした工藤祐司先生が書かれた「ちゅうぎ」考という題の小文を新聞紙上で拝見してからもう10年たってしまった。
「われわれが小さくて、まだちり紙などそうたやすく手にはいらなかった頃、青森の南部地方では、便所の紙の代わりに”ちゅうぎ”という小さな木片を使うところが多かった」と書き出されたその文には、この「ちゅうぎ」という言葉が、アイヌ語なのか、古いこの地方の方言なのか、全くわからぬままに、5,60年たったある日、仏教大辞典の「廁籌」(しちゅう)という言葉が目にふれたことが書かれていた。
「竺人小木竹片を以て糞を拭ふ。廁籌と名く」ということで、「ちゅうぎ」が立派な仏教の言葉であったことを知ったよろこびが述べられていた。また、ちょうどこの地方の人々の生活を見てまわっていた私が”ちゅうぎ”をみた話とあい、「あれは衛生上からみると、なかなか結構なものです。なぜかといえば、平素私どもは、用便の後始末にいろいろの紙を使っていますが、ときどき失敗して手をよごすことがある。しかし、”ちゅうぎ”だとそんな心配は絶対にありませんから」といわれて感心した話など書かれていた。
人々の生活をみ、その生活に用いられているもの、その言葉の背景を考えてみることはなかなか興味のあることである。
さて、この「ちゅうぎ」には、いろいろなエピソ−ドがあることが紹介されている。
昔、小学校の先生が、修身の時間に、「今日は”忠義”のことを話すが、何のことか知っているか」と、こんなめんどうなことをどのように理解させようかと考えながらの問いかけに、一斉に「先生、先生」と手が上がったことにびっくりし、「ハイ、それは便所にあるものであります」と答えられた話。
旧軍隊の査閲のとき、将校から「”忠義”とは何だ」と聞かれ、東北出の兵隊が「・・・・」と口ごもった話。
そして最近では、六ヶ所村の開発がすすんで、大金がころげこみ、数百万の高級車が庭先にある農家に、まだ「ちゅうぎ」のある話など。
こんなことを四国から来た先生に話したところ、あちらでは、ふきの葉を干して、それを用いていた、とのことであった。
だから、”ふき”というのですか、というのは全く私の創作である。