昭和36年11月20日、東京の日本医師会館で、寿命学研究会主催、日本医師会後援で、「脳卒中の予防・治療およびリハビリテ−ション」のシンポシウムが行われたが、この日が、わが国の脳卒中についての「リハビリテ−ション」という言葉が用いられた最初の日ではなかったかと思っている。寿命学研究会を推進された渡辺定先生は、国際的にいって大変おくれている日本の現状をみて、「火をつけた」といっておられた。
私はこの日、「予防」について話したのだが、「予防」も全く考えられていない時代であった。丁度その一ヶ月前に行われた第17回日本公衆衛生学会の特別講演で、、「東北地方住民の脳卒中ないし高血圧の予防についての研究」を発表したばかりの時だったので、この日の会にも、「予防」について話せと、渡辺先生からいわれたのであった。
ここ碇ヶ関の黎明郷リハビリテ−ション病院が、大池弥三郎先生らの努力によってでき上がったのが、昭和41年であるが、これは日本の中では極めて早い出来事であった。
今でこそ、「一寸、リハビリに行ってきた」という言葉が語られるようになったのだが、私が弘前にきた25年前は、ここ東北は、それはそれはひどい状態であった。新聞に、脳卒中でたおれた老人が、出稼ぎに行った息子夫婦にみとられることもなく、鍵のかかった家の片隅で、「猿のように」うずくまって、亡くなっていた、と書かれたことがあった。
今は随分良くなってきたと思う。今日では脳卒中もさけられない運命的な病気とあきらめてしまうより、「予防」もできると考えられるようになった。
高血圧を放置していては、昔のように「ボン」とあたることもあるだろう。生活をあらため、良い治療を受けて、血圧を「コントロ−ル」できるようにうなった。
一寸した発作の「前ぶれ」に気をつけて、「かする」こともなく、半身不随で寝たっきりになることなく、元気で長生きしたいものである。
そしてたとえ脳卒中に「あたって」も「リハビリ」を気軽に利用できるような時代になってほしいものである。