弘前に住むようになって早10年、私には日曜日がある気がしない。あるのは日々である。一面毎日が日曜日のような気もするのである。
ウイ−クデエイに大鰐へスキ−に出かけることもある。又日曜日に静かな教授室へくることもある。研究室に身をおくようになって以来、毎日、休みはないが、いつも気持ちは自由である。
そんな生活がゆるされるのが大学の研究室で、その責任のある自由さの中から研究も進むのだろう。
一昔前”月月火水木金金”という言葉がはやったことがあった。海軍での猛訓練をあらわした言葉だ。私も海軍軍医大尉として軍務に服していたから、文字通り訓練にはげんだこともあった。とはいうものの上陸はあった。きめられたことをすませれば、すべてを忘れて外出できた。それで生活できたのである。それは日曜日であった。
学生時代はよく勉強した方だった。教えられたこと、本に書いてあること、それをおぼえて試験にはきだせば、良い点がとれるのはごくあたりまえのことだった。不十分な成績をとるのは自分の努力が足りないためで、教え方が悪いなどとは思ってもみなかった。
勉強・試験・勉強・試験と一年一年くぎりがついて、進学していった。
試験がすめば、日曜日はあった。夏休み、冬休みは有効につかった。
卒業する頃になった、これからの人生のくぎりは一体何だろうと考えたことがあった。もう試験はない。とすれば、何がめやすになるのかと思った。
そんな自分を世の中のたい勢はおしながしていった。
学窓から軍隊へ。海軍での生活。その大きな組織の中の生活にも日曜日はあった。
終戦後、経済的に大きな困難にぶつかった。自分一人という身軽さから、インフレ、無給助手、食糧難の中に、いもの買い出しをしながら、今でいうバイトをしながら勉強していった。母校の研究室へもどったのである。
学位をとって、奥さんをもらって、開業して、学位をとって、講師、助教授、教授になって、と考えたことはなかった。ただ、なんとなく、今勉強しておかなくてはと思っていた。
研究のテ−マが与えられた。教室の研究の一つを追求していくことになった。
論文の一行、本の一行に、述べられていることの根拠になっている成果は何であったのか。それは誰が、いつ、考え、実験し、観察し、まとめ上げたことなのか。どの研究のどの部分が本の一行になっているのか。日本だけではない。世界中の学問の世界で、そしてどこが足りないのか、おかしいのか。
そんなことをしらべ上げていけば、日曜日などあるわけはない。頭の中は一日中、一年中休まるひまはなかった。それが学位論文になった。
そんな時、弘前へ助教授で行かないかという話が出た。
その前に結婚し、子供ができていた。私の生活は研究室での生活だけではなくなっていたのである。
もし私に日曜日があるとしたら、それは家族の日曜日に私があわせているということになる。
スキ−をすべり、ヨットをはしらす。それは楽しいひとときである。だがそんなとき、あと2,30年の間にやらなければならないことが沢山ある気がしてならないのである。
私の日曜日、それは一体どこへ行ってしまたのであろうか。