15年前弘前へきたての頃、友人から”秋田県”弘前市という手紙を受け取ったときには驚いた。鉄道管理局区内ではあるまいし、秋田県ではありませんと返事を出したら、次に”北海道”弘前市と書いてきたのにはいささかまいったという思い出がある。なんでも北の寒い国の大学へ行ったのしか印象になかったのであろう。外国からくる手紙にHIROSAKIと書いても、大抵は広島へ行ってしまった頃の話である。
「全校に顕微鏡一台しかないそうだ!」といううわさも本当らしく聞こえ、助教授などにはなり手のなかった頃、昭和29年、私は高橋英次教授のもとへ助教授として、慶應義塾大学医学部の衛生学公衆衛生学教室から赴任した。それが今日では受験生はさっとうし、教授の選考ともなればなかなか売り込みが激しく、弘前の名は国際的に有名になり、HIROSAKI・JAPANと書いた手紙が世界中からやってくるようになったことは、本当にうれしいことである。
それにしても当時頭にきたことといえば、新入生の歓迎会などに出るときまって「浪人何回、流れ流れてついに弘前くんだりまでやってきました」という連中の多かったこと。こんな学生を相手に教育をしなければならないなさけなさを感じたものだった。こう学生をしていわしめるているものは、試験制度が悪いからだとか、一期校でなければならないとか、色々意見をのべてはみたものの、とどのつまりは、ここで立派な教育、研究をし、それが世の中で認められなければ、ということに気がついてきた今日、この頃である。
前に学務主任をやっていた頃、入学試験の成績と卒業成績をくらべてみたことがあった。面白いことに、この両者の間には全く関係がなかったのである。この意味するところは、学部時代に如何に教育を受け、本人が勉強するかに問題があるのだと解釈し、入学してからの教育、そしてわれわれの責任を考えたのだが、同時に、生涯教育といわれる医学において、卒後教育に心をくばる必要のあることを教えていると思うのである。
広い意味の医学教育において、大学はどうあるべきか、そして同窓会は。
同窓会が学内の人事にまで口をだすようになってはA大学のようにこまるし、東大対母校出が半々で対立するようではB大学のように大変だ。東北大学出身の教官が多い割に独立度が高いと週刊誌で評価を受けた弘前大学医学部ではあるが、一人一人の出身者が、その地で活躍されてこそ母校の格をあげ、又自分も世の中の信用を得ることになるのではないだろうか。よく出身校のレッテルをはられたという話がある。皮膚科の帷子康雄教授によれば、レッテルははがれるが、出身校というものはいわば、”いれずみ”のようなものであるとのこと。
31年に教授になって早や10数年たってしまった。教授になりたての頃、教育・研究そして社会への奉仕の三本の柱を考えた。一人三役はいかにもつらいが又やりがいのあることであるし、努力しなければならぬと当時書いている。”地方大学”という言葉にはすこぶる抵抗がある。”地方の大学”、”地域社会における大学”の、その中の衛生学についていえば、今後益々その重要性が認められるものだと思っている。
この青森県に衛生学が導入されてから早や25年たった。青森医専時代に近藤正二先生が東北大学から出張講義にこられて以来のことである。その第1回の集中講義が行われたのが、昭和20年6月19日とある。年があけて6月には満25年、正に四分の一世紀のくぎりを迎えるわけであるが、お世話になった方々に感謝をし、将来への発展を期したいと思っているのである。