夏になると沖縄の海を思い出す。 昨年9月厚生大臣や環境庁長官のあとをおうように、厚生省の仕事で1週間沖縄の島々をまわったのである。
”竹富の朝は ユンタの歌であけ”
美女の安里屋ユンタの生誕地である竹富島にとまったが、翌朝6時半、例の”沖縄よいとこ一度はおいでサ−ヨイヨイ・・・”のレコ−ド放送で起こされたのである。この歌は戦時中海軍にいた頃、佐世保のレスなどでよく歌ったものだった。
”紫にかがやく海の黒真珠”
世の中に美しい海は沢山あるだろうけれど、石垣島の川平(カヒラ)の海は最高のものの一つだ。世界中にここだけに養殖されているという黒真珠の輝きに、しばらく仕事を忘れてながめていた案内の保健婦さんの横顔が忘れられない。
こんなにすばらしい自然をもった島の村の人たちが、つい先日までマラリヤに悩まされ、全滅した部落があったという話など信じられないことだった。
沖縄に生まれ育った人たちの感情は、長い歴史を知らなければわからない。
”人頭税 という時の声にひびきあり”
そして今は”半分はアメリカにいる那覇の街”である。道路の陸橋には”clearance”とか、”16feet”といった文字が書かれているのが目にうつるのである。
その中にアメリカ式の代表病院として”中部病院”があり、弘前大出身の若い、そして中堅の医師達が活躍していた。
”Hiltonで ステ−キを注文する同窓会”
”Hilton式(沖縄の)歌とおどりで迎えられ”
そして琉球大保健学部病院は、”文部省にうつったとたんに地域(医療)なし”であった。人事は琉球出身者からみれば、”腰掛けと出稼ぎを拒否する里の人”であるようだ。開業している方はまだ少なく、たまたま眼炎が流行したこともあったが、”受付を朝6時でしめきるいそがしさ”であった。
”保健所長”は街の最高の名士であり、”クラブにて主なる人に皆あえる那覇の街”であり、そこのホステスは”方言札”の中で育てられた子であった。
私の研究方面でいえば、沖縄は”血が高い”人は少ない長生きの島であり、”さげぐすり”には”いかのスミ”をのむということであった。