たしか、「男性からみて職業婦人をどうみるか」といった題を与えられた−−−授業の終わりに−−−、北灯への原稿をたのまれたときに−−−と記憶しているのだが、「男と女」と題をつけた方が、何かを期待して読んでくれる人が多いのではないかという下心から題をつけたのである。
もっとも、男を上にするか、女を上にするかを考慮なければならないのだが、ただなんとなくこう書いてしまった。これも時代がかわれば、女と男と書くことがごく普通で、誰もが、すっとこう書く時代がくるのかもしれない。今は男と女と書く方が自然だと、大正十年生まれの男は思うのである。
外国の論文を読んでいると、男と女が、日本と逆なことがある。とくに「保健統計」の図表で、めんくらうことがある。日本では男が先で、次いで女となるのだが、これが全く逆に書かれていることがあるのだ。現在でも女が先に書いてあり、男があとのことがあるのだ。
中山千夏のように、ウ−マンリベレ−ションの先端をゆく女の子の意見もわからないわけでもない。もし、自分が女に生まれていたら、全く同じような感慨をもったであろう。こう書くと、女性に何か味方しているようにとられ、フェミニストとみられるだろうけれど、しょせんは私は男であり、明治ではないけれど、大正生まれの男なのだ。
保健婦・助産婦・看護婦と、これは女子に独占されている職業であって、男子である看護人には、法第60条−−記憶に間違いなければ、法律のことは専門家にまかせ、現時点で、例えば国家試験を受けるようなときは、その時点でよく調べることが原則である−−で、看護婦又は准看護婦に関する規定を準用できることにとどまっていて、それも、看護士、又は准看護士というようだ。まだ保健士はないが、いずれは、できることだろう。
しかし、ある看護の方の話に、「女でなければ、おっぱいをやることはできませんよ」とあった。これは正に、ナ−ス−−−本当の発音はむずかしい、正しい発音を耳から入れておぼえ、発音できるようにしたいものだ。もっとももう日本語になってしまったのであろう。しかし、もう目前にみえている国際化にそなえて、ナ−スの発音位、いやもっと、まあ、英語でしょうが、身につけることは若い人には必要でしょう。−−−ナ−スの語源としての意味であって、正に大切なことに違いない。たえずナ−スはナ−スとしての主張をしていかなければならない。
講義のはじめの頃、しゃべったかどうかは忘れてしまったけれど、一般に衛生学のル−ツが女神にあると言われている。ハイジエイヤという女神−−私は彼女にあうために、エ−ゲ海のコス島をおとずれた。エ−ゲ海といってもギリシャのである。たしかに女性の像であった。そのハイジエイヤが、多くは、アスクレピオスという医の神、それも男である神の、娘の位置を与えられていることが多い。これも衛生学者としては気になってならないことだ。
ただ、最近の救いは、ハイジエイヤという女神から衛生になったのではなく、もっと古く、大昔は、ハイジ−ンの原義が「健康に生きている」であって、それが女神になったという解釈があることであった。それにしても、何故、ハイジエイヤは女神になり、アスクレピオスは男の神になったのであろうか。これはその時代にさかのぼらなくてはわからないことである。
さしあたって、皆さんの将来は、卒業してからどうすることであろう。しかし「平均余命」からみれば、あと60年はある。この間戦後30年間にみせた変化ほど急速な変化はないであろう。いや、新しい時代に育った人が大部分をしめるようになれば変わるかもしれない。
なにしろ、最後の講義の時述べたように、私と皆さんとは「出生コホ−ト」が違うのだ。それぞれの健康問題が違うように、考え方も違うと思う。
息子がおよめさんにあたる彼女をつれてくる時になったのである。そしてこの二人がこれからどう生きてゆくのか。
保健婦なり、養護教諭なり、試験に通れば、それなりの資格が与えられることは結構なことだ。国とか、県とか、国民の立場からいえば、それを十分生かして戴きたい、というのが当然である。又それで生きていけるのだ。生きにくいのなら、生きていけるようにしなければならない。なにしろ、「保健」は他の人々のためになることを良いことだと信ずるからである。
愛しあっていける人がいれば、二人で生きてゆくのもよいだろう。愛しあえば、当然子供もできるだろう。子供に母が必要だと、私は、思う。その子が育ったあと、女にもどったとき、女としての生き方があるのではないか。