幼稚舎と綱町

 

 おふねは ぎっちらこ ぎっちらこ ぎっちらこ

 なみにゆられて ゆらゆらうごく

 おふねは ほんとに たのしいね

 ぎっちらこ ぎっちらこ ぎっちらこ

 ドミソソ ドラソ ラソミソ ミレドレ

と口ずさむと、三田の山の下にあった幼稚舎の二階の音楽室で、グランドピアノの前に、ちょこんとすわってピアノをひいておられた江澤清太郎先生を思い出す。

 バイオリンを教えて戴いたとき、この音が、家まできこえるかしら、といったと江澤先生が私の母に話したことが、94歳になった母の直ちゃんがそういったそうですよ、と今も語られる話である。

 兄正亮が幼稚舎時代に唱歌が上手で、江澤先生につれられて、増永丈夫(藤山一郎)さんと一緒に帝国劇場の舞台でうたっていた姿が、幼心にやきついていたが、その幼稚舎へ入学することになった。

 6年の時書いた幼稚舎での思い出という作文に、入学試験のとき、1Bの部屋に父兄が大勢いて、その間をぬってあるいたとか、雨天体操場の上にあった6Kの部屋の試験場に入ったところ、兄の受持の坂井林市先生から名前をきかれたとか、平行棒の上をあるくだけで、合格の通知をもらってうれしかったと書いてあった。

 綱町一番地がわが家の住所で、近くの小沢君がやはり合格したとも書いてあった。

 幼稚舎から通りをへだててあった普通部のうしろの道を左に入ると、そこが綱町であり、山名次郎という羽織はかまの年とった先生がいた。

 一寸長い細い道をいったところの右側に、一松栄君の家があって、今も変わらない貴公子の少年の姿があった。

 左へまがり、三の橋の方へゆくのと反対の左へ入ると、袋小路になっているところがあった。そこが綱町一番地の中心ともいうべきところで、ここで大正10年1月17日私が生まれたという。

 このあたりは戦災にあったものの、大体の面影は残っていて、あの家この家となつかしい。大家さんが早川喜久男さんの家で、小さい時からよく遊んだ。

 大正大震災で地面がゆれたのが、兄と一緒に外で遊んでいた私の、この世での最初の記憶にのこる出来事で、地われができ、屋根がわらがざっとおち、夜は畳を外に出して寝たとき、芝公園の向こうの空が、ぼっと赤く染まっていた。

 平岡養一さんが木琴をやっていた。隣の家の今でいう教育ばあさんに子供の勉強にさしつかえるとうるさくいわれていた。しかしわが家にも当時はめずらしかったシロホンが入ることになった。あのシロホンのリズム感が、私に、又息子の修の身についたのかと思うことがある。

 泰夫さん、津二さんが幼稚舎に通うことになり、葉山では遠いと、奥井先生ご一家がおられたこともあった。

 平尾富次郎、坂井安忠先生も住んでいた。平尾先生は以前は幼稚舎の寄宿舎におられたというから、そのあと綱町に住まわれるようになったのであろう。

 三の橋の方へまがると、同じクラスの千浦一郎君の家があった。父上がブラジルへの海外移住についての仕事をやっておられた。家もハイカラで大きく、応接間で、ショパンのピアノ曲のレコ−ドなど一緒に聞いたりしたものだった。戦後東京への転入の困難なとき、一部屋に下宿させて戴いた。徹郎君が、終戦の2日後かに、飛行機でとんでいって帰らぬ人となった悲しい話を聞いたことが忘れられない。

 そのとなりが大久保さん一家で、千浦君にはガ−ルフレンドの思い出があるという。

 小島栄次先生の家、政治家の家などもあった。

 三田通りに面した方には、北川邸に続いて清水潤三さんの家があった。父上が私の父と同じ三井物産の部長さんということで親しくして戴いたが、三田評論に書いておられたように、潤三さんは正に60年三田をながめて停年になられたとか。

 その隣りが野上医院であった。日露海戦に出て金鵄勲章をもっているとのことだったが、内科、外科、歯科となんでも屋で、お世話になった。支払いは盆暮れであったと思う。そこの十郎さんが、兄より上で、井原桜さんらの遊び友達のガキ大将でもあった。

 なんといっても綱町の大物は、徳川邸で、あの広い庭はかっこうの遊び場であり、かくれんぼをやった木や山があった。時々近くの子供達をよんでごちそうして下さった美人の奥様がおられた。

 いつだったか、麻布本村町に住んでいた根来茂男君とつれだって帰るとき、根来君から、君はたぬきのはらの中に住んでいるのだね、といわれたことが耳に残っている。歴史の時間のあとだったかもしれない。

 綱町四番地には内海さん一家が住んでいた。九番地には佐々木春雄さん、そして小泉信三先生が火傷されたところでもある。

 綱町のグランドには数々の思い出がある。木造のスタンドも遊び場であった。岡本太郎さんと一緒に幼稚舎の寄宿舎にいた名古屋の佐藤鎗太郎さんの話によると、野球の慶明戦が行われ、丁度アメリカ帰りで日本ではじめてスクイズをやって成功したのをみたという。父も明治時代に早慶戦をみたといっていた。日本の野球史上記念すべき場所ではないかと思う。

 柔道場があり、羽鳥のデブちゃんは人気者であった。剣道場のにおい。そのとなりに新しい設備の器械体操場があり、野上十郎さんらがやっていた。

 私が幼稚舎の時、プ−ルができた。オリンピックにでるような大学生の泳ぐのをプ−ルサイドで終日あかずながめ、あのガラス窓をよくのぞいて、バタ足、タ−ンの様子をみたものだった。そのおかげか6年生の夏、25米を折り返して、1000米をおよいでしまった。

 9月3日(土)晴。今日もプ−ルへ行って、とうとう千米を頑張った。とてもくたびれたが、うれしかった、と夏休みの日記に書いていた。

 プ−ルと古川との間に弓道場があった。兄が弓をやっていたこともあって、普通部へ上がったとき弓術部に入ることになった。気賀先生を知り、今吉こと土井吉之介、ていしゅこと小池悌四郎、兄と同級の井坂幹一さん、同級のタ−坊伊東孝保そして日吉、四谷信濃町の医学部へつづいて多くの人々と知り合った。

 蘭ちゃん大鳥蘭三郎、山下久雄、小柴清定、ブ−ちゃん佐々木正五、ぼっちょ久保義信、あと吉岡守正、前謙前田謙次、陽ちゃん渡辺陽之輔、いずれも幼稚舎出身で長いつきあいになった。

 空手場があり、入口に近いところに相撲場があった。

 グランドでは大学生が、サッカ−、ラグビ−、ホッケ−、そして軍事教練をやっていた。

 クラスの友人の多くは綱町に近く、麻布、白金台町、三光町、三田に住み、歩いてかよってきていた。三田三丁目には受け持ちの久保田武男先生の家もあった。

 今は綱町という表示はない。本籍は三田二丁目一番地となった。しかし幼稚舎そして綱町での生活が、60をすぎた人生でのささえになっていることは間違いない。

 慶應義塾、その幼稚舎の、とうたわれた生活が、そこのあったのだと今思うのである。

(仔馬,200号記念,165−167,昭57.7.16.)

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