「飛鳥」のことなど

 

 久保田武男先生の教えを受けたわれわれの会の名前は、すぐ「飛鳥会」にきまった。それは先生が歴史の時間に、熱情をもって語られた聖徳太子、法隆寺のでてくる飛鳥時代のことが、皆の頭にあったからだ。

久保田武男先生

 大正15年慶應義塾の経済を出られた先生がはじめて担任されたのが、われわれ昭和2年入学のB組で、その後先生の受け持たれた組の名前は、白鳳・天平と三代つづくことになった。

 先生が出征され、われわれが大学生になり、又社会に出る頃、長年の懸案であった「飛鳥」を発刊することができた。

 写真はその創刊号の表紙である。森下孝君が「飛鳥発刊に際して」を書いている。

 「ペンを取る前に、先ず遠く戦地に活躍して居られる久保田先生の御健康を祝する。難産ではあったが、到々生れ出た”飛鳥”である。僕等の喜びはさることながら、先生の御満足も如何ばかりであろう。此の事については諸兄の御援助に、深く感謝しなければならない。」後に彼は戦死してしまった。

森下孝・千浦一郎君と(昭18)

 編集を手伝った私にも思い出がある。

 「何度も何度も挫折しかかったこの仕事を所謂プリント刷にしようかと思った事もあった。手間は省けるし簡単だしと。然し、これからはどうしても活字でやらなくてはと思って居る」と書いている。

 表紙の紙をさがしに、日本橋の”はいばら”へ行き、手に入れた。父の蔵書の中から、「飛鳥」の字をみつけ、木版として、一枚一枚手刷りでつくった。

 表紙をひらくと、久保田先生が南京城外に立って、「中山陵を望み、勇気凛然たるところ」の写真がはってある。これも一枚一枚引伸しをしてはったものだ。

   

 二号、三号とつづく中に、先生からの、戦地より、白衣帰還、戦塵余話、そして中国に53年居をかまえていたという教会の一牧師との会話”Very Long Long Time”の記事がのっている。戦塵余話のつづきは、「近頃、この種の記事は当局の取締がうるさくなって来てゐるさうだから、編集者に迷惑をかけることがあっては」と中断された。

 われわれ仲間の随筆、生活調査の記録、運動、旅行記、日本文化論(山路修平)、映画論(長谷川雅郎、坂倉敬一、小倉義雄)、外交短評(堀越英快)等々。

 編集の者も皆、戦場にゆくことになってしまった。

飛鳥会初の入営者窪田俊一君を送る会 昭17.11.幸楽にて

 昭和18年4月24日、飛鳥・白鳳の者が、久保田先生受け持ちの天平の幼稚舎生をさそって、神奈川県馬騎ケ原で、快晴を一緒に楽しく遊んだことがあった。

 この時皆でとった写真をかざった第九号で飛鳥はおわってしまった。もうこの時は、ザラ紙、ガリ版刷であった。

 追記として最後のところに、次のようなことが書きとめられている。

「第九号発行に際しまして天平会員服部修君の父君服部益三郎氏の御好意に依り一番困難とされて居た紙を都合して戴く事が出来ました。記して感謝の意を表す次第であります。」

 ここで「飛鳥」はおわっている。

 戦災をまぬがれた創刊号から九冊を、いずれ幼稚舎のお倉に保存して戴きたいものと思っている。

(慶應義塾幼稚舎同窓会報,122,8,昭和55.3.20.)

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